第五話「誰かの為に」

    一  船頭の舵切り


 「ではみなさん、そういうふうに空には月が浮かんでいるとされているのだけれど、この世界は水に沈んで言われている説があるのをご存じかしら?」

 今日もしんしんと雨が降る朝。学院の眩い光と確立されたかのように闇を隔てて遠くにランプ街の人々の営みが点々と光っているのが窓から望むことができるミシェルの部屋の談話室……。

そこではいつもミシェルが二人に知識をつける場として用いられていた。

 オデットやニコラの日々の勉学は、魔導師と呼ばれる教師らから学ぶのではなく高等部であるミシェルが直接教えているのある。

 「オデット! 船をいでいる場合ではないのよ! はあ……しょうがないわね。紅茶でも入れましょう。休息をとらなければ」

 空中に光り輝く線で描いた板書を手で払って消すとキラキラと散り消えた。

 「ミシェルさん、私もお紅茶を淹れる手伝いをさせていただきますわ」

 「ありがとう。じゃあニコラはミルクを温めてくれないかしら」

 ミシェルがポットの中から素材を取り出している間ニコラは器用にミルクの瓶から少し小ぶりなミルクピッチャーに移して器用に温めていた。

 「随分と慣れたわね」

 「前にご教授いただいたからですわ」

 医務室のマーガレットから許可を得て‘通院’という形で、まだ怪我も治りきっていない中で授業を再開していた。それは目を覚ましたその日、その許可を得た直後の事であった。

 「……あの時の傷はまだ痛みますの?」

 「あら、そういう風に見える?」

 「全然! ですので無理をしていないか不安で」

 「私はあなた達を無事に季期テストの上位……いえ、一位にすることが目標なの。少したりとも知識以外の余念を与えないつもりだったのだけれど。ニコラには隠し通せなかったみたいね」

 照れ気味の笑いを浮かべながらポットを渡してニコラにミルクを入れてもらう。そして、手際よく紅茶を三つの蒼いグラスに淹れると小気味良い湯気を出してあたりに匂いを漂わせていた。

 「さあニコラ、オデットを起こして。紅茶を飲んで午後まで一気にいくわよ!」



 「起きたわね。じゃあそうね……説や論に関しては復習をしてもらうとして、次は生物の科目にいきましょうか。馴染みがあるカラスバチとアカアメアゲハという鉱虫について説明してするわね。カラスバチはこの前私たちが対当した虫ね」

 「あの虫ってそういう名前だったんですね!」

 「ええ、そうよ。基本的に鉱虫は見た目の名前や容姿から名前を付けられていることが多いわ。その起源に関しては不明で、いつから存在しているかは現在も議論されているのよ」

 オデットの目が生き返ったことを確認してから話を続ける。

 「空巣蜂カラスバチ。群れを成さない代わりにつがいをいち早く見つけて子を成すための巣をそこら中に作っては立ち去る厄介な鉱虫ね。黒い胴体に両翼として複数枚所持した薄黒い黒曜石のような羽をもっているのが特徴よ。仲間意識は強いみたいで危険が及べばどこからともなく集団を形成して危険を排除するように行動するの」

 空中にカラスバチの絵を空中に描きながら要点となる単語を書き出していく。

 「ええっと。ミシェルさん……それは何ですか?」

 「オデット、これはきっとカラスバチの分布図に違いありませんわ」

 「……。ええそうね。これはカラスバチの分布図よ。よく気づいたわねニコラー」


 「(あれ、ミシェルさんの声から抑揚が消えた!?)」

 「(あら、ミシェルさんの声に抑揚がありませんわ!?)」


 目を見合わせた二人はミシェルの言葉を聞いてぎくりとしていた。しかし話は何事もなかったかのように続いていく。そして二人はミシェルがさらっと絵を消していた所を見ていた。

 「おほん、続いては赤雨揚羽アカアメアゲハという虫についてよ。アリギュラ先生が手掴みでしょくしていらしたのを覚えているかしら」

 「ああ! 外はカリッと、中はどろっとのやつですね!」

 「ええ、確かにこの国では害虫ということで知られる鉱虫なのだけれど、高級食材やそのグラスの素材のように扱われることもあるの。その強さから滅多に手に入らないけれど、それを狩る人間もいるのよ。大抵はこの学院出身の生徒が多いのだけれど、それはまた別の話ね」

 「あれらは食べれるんですの?」

 「もちろん毒を持っている虫もいるし、読んで字のごとく鉱虫だから硬すぎたり食べれる部分が少なかったりするけれど、そのあたりは現存する動植物とあまり変わらないわ」

 「なるほど、そのアカアメアゲハも強いんですか?」

 「幼虫はそこまで強くはないけれど、変態を経て成虫になった時が厄介なの。さなぎは十人の魔法使いが攻撃をしても傷一つつかないでしょう。それが成虫になったらと想像してごらんなさい。考えなくても厄介だと思わない?」

 うんうんと頷く二人の興味を引きながら話を進める。

 「成虫は全長十メートル以上の大きさになるの。赤雨アカアメの名の通り、巨大な羽には赤い斑点が雨に降られたようなまだらを描いているの。そんなアゲハの鱗粉には強力な痺れの作用があるの。羽はカラスバチほど切り裂くような速さはないけれど、押されるくらいには強いから危険には変わりないわね」

 「じゅ、十メートルって……この部屋に収まりきらないじゃないですか!」

 「現在分かっている鉱虫のほとんどはこの部屋に収まりきらないわね。強さも未知数」

 「えぇっ!」

 「いい? 少し脱線するのだけれど、もし鉱虫に出くわしたら迷わず光弾を空へ放って助けを呼びなさい。魔導師であっても死ぬことはなのだから」

 ごくりと生唾を飲み込んだ二人は先日のミシェルのあられもない姿を想起していた。

 「正直、私が生き残っていたのは奇跡に等しいと思っているわ。死を覚悟したもの……。でもあなた達が助けに来てくれた。私はこのことを誇りに思うわ。しかしそれはそれ、これはこれ。次に虫と対当するのはあなた達かもしれない。その時は絶対に、背を向けて逃げてはいけない。淑女たるもの背を向けずに逃げるのよ。いい?」

 わかりました、というような表情を添えてこくりと二人は頷くと、ニコラは下を向いたまま留まった。オデットは拳を握りしめた。

 「アタシは、強くなりたいです」

 「ならば知識をつけなさい。機動力の高い虫はその機動力を失ってしまえばまだ幾分か勝機があるわ。隙があるのなら羽を狙いなさい。そういう知識を本や私から少しでも吸収して活かしなさい。失敗以外からも学ぶことができるのが人間の一番の強みなのだから。実力はアリギュラ先生が申し分なくつけてくれるでしょう。それでももし足りないと思ったら、迷わず私や先生を頼りなさい」

 「はい!」

 「わかりましたわ!」

 十分な手ごたえを感じたミシェルは次の話をしようとしたところで鐘の音が鳴った。高音のみの甲高い清々しい音色が学院中に響いた。

 「お昼ね。食事の時間よ。午後の授業は仮面舞踏会マスカレイドのための舞踏練習と馬術よ」

 「やったー!」

 「ということは……ダンスホールに集合、ですね?」

 「ええそうよ。フォローありがとうニコラ。くれぐれも走っちゃだめよオデット。音を立ててスープは飲んじゃダメよ?」

 「な、何回も言わなくてもわかってますよ!」

 お腹をさするオデットはカーテシーをして、それにミシェルが頷くとようやく解放されたかのように足早に食堂へと向かった。ニコラは笑いながらふわふわと追うように歩いて行った。

 音が遠くなっていくのを耳で確認したミシェルは隠すように置いてあった部屋の隅の本の山に掛けられた布に手をかける。お腹の虫がページをめくる音をたびたびかき消したのであった。



    二  身の程



 一杯のスープと肉汁たっぷりの牛肉がもりもりに乗った皿一枚がオデットの食卓の前に並んでおり、ニコラの方には同じくスープとホクホクのシェパーズパイが一皿ずつ並べられている。

 そしてあらかじめ切られたパンが入ったバスケットがひとつ、二人の間に置かれていた。

 「じゃ、いただくとするか」

 「ええ」

 二人はおごそかに祈りを捧げてから真っ先にオデットが手を伸ばしパンと肉を頬張った。オデットがあまりに美味しそうに食べるのでニコラは少し眺めてから食べ始めた。

 「そういや、ミシェルさんはいつ勉強してるんだろうなあ。毎日アタシたちに教えることを即興で考えてるのかな」

 「あらオデットは気づいていないんですの? 少し隠せているのか微妙ですけれど、布が掛けられた四角いの、見たことありません?」

 「置物じゃないのか、あれ」

 「いいえ、とんでもない! 実は私、ちらりと見たことがありましたの。あの布の中身を……そこには……なんと」

 「なんと?」

 「そこには、なんとたっくさんの教材の本が山のようにありましたの!」

 「ええ!! でもいつ読んでるんだ?」

 「それは私たちが寝静まったあと、もしくは今のような食事時に……ですわ。この前にどうも寝つきが悪くって目が覚めたのですけれど、その時に談話室で暗がりに蝋燭一本の灯りだけで本を読み込んでいたミシェルさんを見かけましたもの。間違いありませんわ」

 「ミシェルさん……」

 「私たちにできることはミシェルさんの時間を少しでも空けることだと思うの」

 「ってことは次の季期テスト、一番を取らなくちゃな!」

 「ですわね!」

 食事の手が止まるオデットに対して、ニコラは相変わらず粛々と食事を進めている。

 

 そんな中、聞いたことのある甲高い声が食堂に響いた。

 「あ~ら! こんなところに照らし番がいらっしゃるわ~」

 「駄目よ、安易に話しかけると日焼けがうつっちゃうわよ~」

 キャハハと笑う一人が持っていた傘で椅子に付いた四本の脚の内一本を打ち折った。そうしてバランスを崩したオデットはまんまと崩れ落ち、軽く尻餅をついてしまった。

 「ッ、痛ってぇ……」

 オデットが立ち上がろうとするとニコラが手を差しのべた。そしてオデットにしかわからない様にひっそりウインクをすると目線をスープに移してオデットに合図を出した。

 オデットがニコラの手を取り、立ち上がる時に体勢を崩した風にしてスープの皿の片側を引っかけてスープが見事にひっくり返り、笑う二人に全てかかった。

 笑いが止まる。その様子を見ていた野次馬の何人かが失笑した。

 「あぁ、あなた達……よくもぉ!」

 振り上げられた傘はあわや当たる寸前に制する声が二人の動きをピタリと止めた。

 「グレイシア、モーリス……もう、およしなさい」

 怒りと恥ずかしさに震える二人の後ろから、オデットのグラスを割ろうとした高等部の生徒が姿を現した。よく見ると光がピンと、まるでピアノ線のように張っており動きを止めていた。

 「フランソワーズさん? ど、どうしたんですの?」

 「失礼したわね」

 カンカンと持っていた傘の石突を二度タイルに軽く打つと、そのまま歩いて行ってしまった。うつむくフランソワーズを心配そうに追いかけるグレイシアとモーリス。それらを見ていた野次馬は既にどこかへ行ってしまっていた。

 「な、なんだったんだ? あいつら……」

 「さて、どうかしら……それよりもオデットは怪我はありませんの?」

 「アタシは大丈夫。いやあ、あいつらのあの真っ赤な顔は忘れられないな!」

 「うふふ、そうですわね。あなた風に言うなら、『見ものだったな』ですわね」

 「アタシそんなこと言ったことあったっけ?」

 ハッハッハと笑う二人は、それを遠目に恨めしそうな目でグレイシアとモーリスは見ていた。それに気がつくわけもなく、二人は食事を終えてダンスホールへと向かった。



    三  ダンスオンダンス



 貸し切りのダンスホールに巨大な中央のシャンデリアに照らされて放射状に延びた影が三つ。

 「いい? この舞踏会はその辺の社交界とは違うの。仮面をつけるということは普通のより体幹と頭のブレがより厳格になってくるわ。身分の差はある程度緩くはなるけれど、その分誰と当たるかわからない……王族かもしれないし自分より低いかもしれないわ」

 ニコラとオデットは緊張しており身体がすっかり強張こわばっていた。

 「それに、どんな不確定要素イレギュラーがあるかわからない。それでも貴族、いえ淑女たるもの焦ったり急いだり、みっともない姿は見せてはならないのよ」

 「な、なんで今日はそんなこと今更いうんですか。怖くなってきましたよ」

 「今更だからよ。練習からしばらく経った今がもう一度締め直すいい時期。とくにオデットは最近調子に乗っているようだから、ね」

 「『ね』じゃないですよ! 別に調子に乗ってなんか……」

 「でも確かにオデット、最近は私にリ―ドを譲ってくれないですわね」

 「に、ニコラ!」

 「ね、だからよ。オデットもリードされる側を学ばなければね」

 「はあい」

 「はいそこ、拗ねないの」

 そうしてミシェルは設置された蓄音機にワルツの円盤をそっと置き、針をその溝に沿わせた。拍を数えつつ動きの指導をしているミシェルは時折曲を止めては手本を見せていた。

 息が切れ始めうっすらと汗が滲むようになった頃、ミシェルは円盤レコードの回転を止めた。

 「休憩よ。本来なら休憩なんて区切られることはないのだけれどまだ練習段階だから許してあげる。十分息を整えなさい。ちなみにもうハンカチは持ってるわよね?」

 「持ってますよ! アタシを何だと思ってるんですか。もう……あ、でもニコラにはまだハンカチ返せてなかったっけ」

 「いつでもいいのですよ。思い出した時で」

 「えー、まさかあなた『他人の物』を『借りている』の?」

 「あの、引かないでもらえますか? いいじゃないですか! 別に……友達だもんな!」

 「はい! 友達、ですもの~」

 「んまあ別にいいのだけれど……確かに友達としては満点ね。でも淑女としては二十点よ」

 「何点でもいいですよーだ」

 「なんですかその言葉使い! もう容認し兼ねるわよ!?」

 そういいながら無邪気に走り回るオデットを、来ていた服の裾を持って追いかけるミシェルが追いつけるわけもなく、ただただホールには「淑女たるもの、走ってはいけません!」という言葉を発しながら走る彼女の声が幾重も反響していた。



 雨は止んだものの、湿った空気の圧し掛かった学院のだだっ広い敷地には障害物がほとんどないためか少し肌寒い風が吹きつけるような場所となっていた。

 「馬術の訓練は初めてね?」

 更衣室で着替えた服は馬にまたがりやすいパンツスタイルになっていた。もちろん学院支給品である。ニコラは着慣れていないのか終始もじもじしていた。

 「私は乗るのも触るのも初めてですわ」

 「そうなのか。まあ確かに想像はつかないけど」

 「それならニコラは馬と仲良くなって乗馬まで進めればいいところからしら。オデットは乗馬や諸々もろもろの経験はある?」

 「ありますよ。ちょっぴり自信もあります」

 「それは頼もしいわね。今日教えきれなかったところは補足をお願いするわ」

 「任せて下さい!」

 トンと胸を叩くオデットをはいはい、と軽くあしらいながら馬房の鍵を開けた。

 「通常なら鍵がかかっているから自主練習をするなら監督生に言うのよ?」

 開けた途端バフッという鼻息の音がしてニコラはびくっと跳ねた。こころなしか震えている。

 「大丈夫よニコラ、古来より馬は人と仲が良いの。こんなに大きくて人間より力の強い生物は草しか食べない上に人を滅多に襲わないなんて優しい生き物だと思わない?」

 こくりと頷くとキーリングについた鍵の中から二本南京錠に挿して馬を二頭引き出した。

 「あれ、三頭じゃないんですか?」

 「他の生徒も使う兼ね合いで厳しいのよ。一頭は私が乗って指導するから順繰りにあなた達は乗りなさい。でもオデットが乗り慣れているようなら、状況を見てニコラに長く乗っていて貰いたいのだけれど。それでもいい?」

 「私はそれで構いません」

 「え、ええ」

 挙動不審になるニコラに興味津々と言わんばかりに馬は容赦なく顔を近づけてくる。ある程度制しながらもミシェルはその初々ういういしい光景をみてニコニコしていた。

 「アタシも最初はこんなだったなあ。ニコラ、試しに首を撫でてみなよ」

 ゴクリと頷くニコラは恐る恐る手を首にあてた。馬は一度拒否するような動作をしたが手が振れると安心したのか首を下げた。

 首をさするように何度か上下させる中、そんな姿をオデットは笑っていた。

 「馬の首は太いから感覚があんまりないんだよ。だからちょっと強くても大丈夫だよ」

 「そうなんですのね……ひい!」

 「ひとまず外へ移動しましょう。オデット、手綱を持ってもらえる?」

 そうして一行は馬房の外へと出て行った。片手でニコラの手首を荒々しく掴んで首に手をバンバン当てさせている。そんな中でも器用に馬を歩かせているのを見てミシェルは感心していた。

 「馬術には単騎乗と馬車付きの二種目があるの。馬術を極めれば競走馬の馬にも乗れるけれど、ひとまずは単騎乗の初歩的なところから行きましょう。たしなみとしては必須科目ね」

 「ここに足を引っかけて、手綱のこのところを持って引っ張りながら足を回して……」

 力を入れると音を最小にスッと乗った。一方時を同じくして力任せのようにグイッと乗ったオデットが鼻をフンと鳴らしていた。

 「こらオデット! 人の話はちゃんと聞きなさい!」

 「ははっ、ごめんなさい。つい嬉しくって」

 無邪気に笑うオデットにそれ以上は言えないミシェルではあったが、ため息を吐いてから話を続けた。目線はニコラのいる下方に向いていた。

 「ひとまず見せてから教えるわね。じゃあ……そこまで自信のあるオデットはあの木まで行ってその辺りを一周してから戻ってきて来ることくらい簡単よね?」

 「朝飯前ですよ!」

 「言葉使い!」

 「はーい。気を付けまーす!」

 そういう頃にはもうすでに遠くに行ってしまっていたオデットに『もう』というミシェルは、ニコラにオデットの姿勢から移動のさせ方のコツを口頭で、オデットというお手本を見せながら丁寧に説明した。ミシェルは説明するたびに深くなっていく眉間のしわを微笑ましく見ていた。

 言い終わる頃に帰って来たオデットは彼女が何か言う前に馬を降りた。

 「ハイ、ニコラ」

 オデットはニコラに握った手綱を渡した。意を決したニコラは言っていた通りに片足を引っかけて手綱の根の方を引っ張るようにして足を回そうとしたが、なかなか回らなかった。オデットはそんなニコラの太ももあたりを優しく触れて上に押し上げた。

 「ひぇう」

 「はっは! なんて声出してるんだよ! でもニコラも乗れたな!」

 「そうね、ずいぶんと腰が曲がっているけれどイイ感じよ。そのまま腰を伸ばして……そう。ああ、手綱は決して話してはだめよ? そのまま手綱の根本を持って足で馬の胴体にしがみつくようにするの。オデットはそのまま支えてあげなさい。馬を動かない様にしてあげて」

 尋常でない程に震えるニコラはオデットの暖かい手の温もりを感じながら徐々に背筋を伸ばしていく。そして伸びきった時、元々の背の高さも相まって随分と格好がついていた。

 「かっこいいぞニコラ!」

 「良い調子、だけれど油断は禁物よ! オデットはなるべくゆっくりと馬を誘導してあげて。ニコラは不安ならオデットの手でも握っていなさいな。そっちの方が怖いかもしれないけれど」

 「わ、わかりましたわ」

 やはり手綱からは手を離せないりきんだニコラは、オデットに連れられて先ほどの道を今度はミシェルも付いて歩いていく。

 褒めつつも注意点をその場で言いながら進んでいく。いつしか緊張がほぐれたのか、ニコラの全身に入った力は徐々に抜けているようだった。

 「な、慣れてきましたわ。ありがとうございます」

 「汗、拭く?」

 手綱から手を外せないニコラに代わってハンカチで拭こうとする。身長が低いオデットとただでさえ差のあるニコラの汗を拭くには、ニコラ自体が腰を曲げて顔を下げなければならず、それが二人とも随分と不格好であったためにミシェルはお腹を抱えて笑っていた。

 「ちょっと、やめ……降りればいいじゃない……ああ、私としたことが……でも」

 息切れしながらその光景を見るミシェルは目から涙さえ流していた。

 じゃあ降りるか、と言おうとしたオデットは馬越しに誰かがこちらを見ているのに気が付く。そしてそれがこちらに向けて光弾を放とうとしていることに気が付いた。

 「危ないニコラ!」

 そういう前に、その光弾は凄まじい速度で馬の足元に着弾し土をえぐっていた。

 馬はニコラを乗せたままいななき走り出してしまった。ミシェルの方の馬は立ち上がったものの、器用な手綱さばきで振り落とされずに済んだが、ニコラは片足が外れており、体勢も不安定のままであった。

 「オデット、監督生を呼びなさい!」

 返事を待たずして暴走する馬に向かって走らせた。

 「(あの速度なら二分くらいで敷地の外壁にぶつかってしまう……馬は暴走している、オデットが間に合ってくれれば……!)」

 オデットも同時に全速力で走り始めた。ミシェルは馬にすぐ追いつくと強張り馬の首にしがみつくように伏せたニコラと併走していた。

 「ニコラ!」

 そう叫ぶとミシェルは走りながら両足を片側に引っ掛けると片足をニコラを乗せた馬の方へと引っかけた。

 「ごめんなさい!」

 そして勢いよくけり出すと間一髪で手綱を掴み乗り移る。ニコラに覆いかぶさるように足を回して反対側のニコラの足に絡める。もう片方の足でふらふらとしているニコラの足を絡めて固定した。手綱を握るニコラの冷え切った手の上から重ねて握った。

 「もう安心なさいな」

 「(とは言ってみたものの、壁までもう三十秒もない……オデット早く!)」

 

 「ミシェル・シュールズマン!」


 オデットと共に現れた監督生は持っていた杖を投げた。それは勢いよく回転して最寄りの外壁にカンと当たると光の輪っかが勢いよく二つ出現した。それがミシェルらの突っ込むはずの外壁まで移動するとミシェルの乗った馬はその輪っかに入った。するともう一つの光の輪っかの所にまるで瞬間移動したかのように、今度は帰ってくる運びとなった。

 「(間に合った……! このまま牧草置き場まで!)」

 そして時間にして一分ほどだった。それらは勢いよく牧草置き場へ向かっていた。微妙に角度を調節しつつ何とかその方へと突っ込んだ。幸い置き場に門はないため破壊することはない。

 ミシェルはニコラを抱えて器用に足を外させてから牧草に向かって馬から飛び降りた。

 馬はその後さらに十分程度走ると落ち着いたのかふらふらとしていた。先ほどミシェルが乗っていた馬がまるで介抱するように寄り添い歩いていた。

 衝撃でミシェルの全身に未だ癒えきっていない痛みが走った。叫びそうになるのを堪えて、ニコラの方へと声をかけた。

 「危なかった。ニコラ大丈夫?」

 ニコラはぐったりとしており、よく見ると気絶しているようだった。

 「怖かったわね……」

 ぎゅっと冷え切った身体をほぐしながら抱擁して撫でているとオデットが飛び込んでくる。

 「大丈夫でしたか!?」

 「ええ、私もニコラも擦り傷程度よ。あと少しだけ脳震盪のうしんとうも。それよりありがとうオデット。監督生はああ見えて寮内に屈折魔法をかけている魔道師で、その手の魔法で右に出るものはいないくらいの実力者なの。百八十度の屈折魔法は指折りの技術が必要なんだから」

 「へえ……って、いやいや、そんなことよりさっき魔法をかけてきたやつら……」

 「お知り合い?」

 「いえ、別に。ただ昼に食堂でいろいろあって。ごめんなさ……」

 そこで、前に自分が謝ることがない時に謝るのはおよしなさいと言われたのを思い出した。

 それを見てミシェルはにっこりと笑った。照れるオデットは二人に手を差し伸べた。

 「あら。じゃあ……ニコラをおんぶできる? あとは私がやっておくから大丈夫よ。念のためニコラを医務室へ」

 「はい、任せてください!」

 

 ミシェルはニコラをオデットを預けると、裾や髪などに引っかかった牧草を取り払い後からやって来た監督生と話をした。

 「これは、大変でしたな」

 片手で指を鳴らすと、カタカタと杖の方から勢いよく老人の手に収まった。

 「誰かの仕業には間違いありませんが……検討はついておられるのですか?」

 窪んだ目蓋の影から鋭い眼光を放ちながら、まるで断罪する裁判官のように問いかける。

 「ええ、こちらで解決しておきますわ。それより馬体の検査をしたほうがよいかと」

 「もちろん、それは既に手配済みにございます」

 「そ、それは早い仕事ですわね。見習わなくてはなりませんね」

 「ほっほっほ」

 笑っていない目を見ることができずらしていると監督生は切り込んでくる。

 「時にミシェル・シュールズマン様。若さゆえに、傷をおろそかにしていると、やがて必要な時にそのツケが回ってくるものにございます。私の目は、ごまかせませんぞ」

 「あ、アハハ……あなたには頭が上がりませんわね。入学した時から……ご忠告、感謝いたします。必ず医務室に行きます」

 その言葉を聞いてからようやく目を細めてほっほっほ、と笑った監督生はゆっくりとその足を動かして闇に消えて行った。

 ふうと息を吐いて服装や髪を整えてから医務室に向かって歩き始めた。


 「ある程度目星はついているけれど、それよりもあの子たちを安心させないといけないわね」

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