第3話 ギムレット

 バーの止まり木の背中はひとつだけだった。

 肩と大きく背中を開けたワンピースだ。肩甲骨に特徴的な黒子ほくろを認め、彼女だとわかった。その姿でここまで来たなら、クロークに分厚いコートを預けていないと、駐車場に着くまでに風邪をひきそうだ。

 祐華は、そんなに攻め込むタイプではなかったが。

 口には出すまいと心に硬く決めて、ホテルのロビーからその店に入った。見回すとボックス席にも人影がいない。

「ごめん、遅くなった」

「お店の締めだもの、待つのは覚悟していたわ。ちゃんと戸締まりしてきたの」

「ああ。もう年末だからね。お客さんは家では鍋をつつく時期だろう。夜更けまで珈琲片手に僕に愚痴を言ってると運気が下がるからね」

「そう、何か飲まない。またギムレット」

「いや、まだギムレットだ」

 注文をすると、年嵩のバーテンが会釈を返した。

 白髪で耳元の周囲を飾り、頭頂部はゆで卵のようで、笑顔などの愛想はない。しかし背筋はしゃんとして、ぴしりと糊の効いた姿でシェーカーを振り出した。

 ストロークが安定している。振り子時計よりも正確なフォームだと思った。

 氷がカップで砕けていく音がする。このバーのドライジンはちゃんと英国物で辛口だ。シロップは極めて控えめ。またライムをカットしてグラスの肩にも挿してくれるのが粋だと思ってる。

 ことり、と音を立ててグラスが置かれた。その音に嫌味さはない。若いバーテンだとこうはいかない。 

「やぁだ。ギムレットってお別れのときに頼むんじゃなかったの」

「チャンドラーならそうだが、ハメットなら違う小道具に使う」

 「長いお別れ」という作品では、ギムレットを介してふたりの男が別れを名残惜しむ場面シークエンスに使われて、有名なカクテルになった。

「ならば、ぶぶ漬けでもつまみに頼もうか」

「もう」と口を尖らせる。

 カクテルを含み、舌先で刺激を味わう。こうして味を確認して、分析してしまうのはもう職業病だと思った。店内の客数とその動きにもつい目がいく。手でも上げられたら尻が落ち着かない。

「これをお洒落な場所で、人生で初めて飲んだんだ。それ以来バーではこれしか頼んだことがない。飲まず嫌いなのかも知れないね」

「臆病なのよ、貴方は」

「そうだな」

「今日は空いているんだな」

「上のお部屋はカップルで一杯よ」

「そんな時期か」

 もうこの場所を引けて、しっぽりと愛を交わし始める時間帯になっているのだ。祐華はハンドバッグからピルケースを出して、その中から一錠飲んだ。彼女のカクテルの側にペリエの瓶があるのはそういうことかと思った。

「いいのか、お酒と一緒に」

「大丈夫よ。ラヴドラッグだから」

「何?」

「お店で扱えば。生意気盛りのティーンにウケるわ」

 その双眸が潤みを帯びている。舌先がリップを舐めている。

 秋口の再会からどうも彼女に、情緒不安定なものを感じていた。でなければ師走の深夜に、こんな場違いな場所に足を向ける所以ゆえんはない。

「上に部屋は取ってあるわ」

「冗談を言うな。君とはそんな仲ではなくなって、もう5年は経つ。想い出として綺麗に遺しておきたい」

「言うと思った、嘘よ。ただの睡眠導入剤よ、これは。眠れそうにないのよ、毎晩ね」

 しおらしく肩をすくめた。

 祐華は、そんなに覇気のないタイプではなかったが。

 なので身を乗り出して、耳元を寄せた。しばらく躊躇う気配を感じる。もう一度瞳を覗き込むと、その中に溢れかけたくらい海が見えた。

「もうね。女でもないのよ。中途半端な生き物よ」

 聞きたくない言葉だった。

 知りたくない事実だった。

 ある時期までは、一緒の人生の軌跡を描くかと思っていた。それが無分別に交差点を作ってしまい、強引に分岐したのは僕のせいと思っている。

「子宮筋腫でね。とってしまったのよ。あれ程、辛かった生理もね、今では懐かしいわ」

「そうか」

 黒々とした感情が沈澱していく。底なし沼のような空洞に不用意に踏み込んだ気がした。

「手袋を買ったのね」

「いやサンタが届けてくれた」

 左手には薄手の革手袋を付けていた。こんな場所でも失礼に当たらない上品なやつで、馴染み客の女子高生から貰ったものだ。

「どうしたらいい。できることはないか」

「上に部屋があるのは、本当よ。できたら私が眠るまで、一緒にいて欲しい。何かしても騒がないわ。泊まってもいいし、眠ったら帰ってもいい。ただ眠る前に、部屋に体温を持っている存在が欲しいのよ」

 僕は席を立って、彼女を手を取りいざなった。

 かつては「なんて貴方は冷血なの」と叫ばれたことがある。

 そんな想い出には鍵をかける夜にした。

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