第26話 交差点

 祐華は同居を望んではいない。

 しかし半ば強引に連れてきた。

 僕が10年近く住んだ、この古民家にはまだまだ空き部屋がある。

 まず彼女の椅子をリビングの食卓に置いた。

 あのアパートでも異質なその木製の椅子は、僕のリビングでも異質な気品を撒き散らしていた。

「お祖父様がオーダーで作ってくれたものなの。まだ小学生の私にね」

 そういって見事に彫刻された、曲木細工の背もたれを撫でた。年月を経た木材に鈍い光沢がある。

「座面はもう3回くらい張り替えたわ。あの家からもってきた数少ない私の持ち物なの」

 大広間になる和室には小さな仏壇に母の遺影がかかっている。そこにはアパートから彼女の箪笥と毛布を運んだ。数日後には、その薄ら寒い部屋に通販でベッドを置いた。コイルスプリングのしっかりとしたやつだ。

 彼女の腰に負担を掛けたくはない。

 布団から立ち上がるのは苦痛のはずだ。

「そんな・・・居着いちゃうわよ」

「構わない」

「去年は追い払いたくて、堪らない顔をしてたわ」

 その鼻先に朝の珈琲を置いた。ヨーグルトに手作りのジャムを落として、朝食にした。言い返すのも億劫だからだ。

「構わない、雨に打たれた子猫を拾ったと思ってる。元気になれば、ねぐらを変えるだろう」

「そのねぐらは先週に、貴方が解約したのよ」と口元を隠して笑う。

「でも心強いわ。ずっとひとりだと、何かあったときに困るから」

 その何かを考えたくはない。ずっと未来であって欲しい。

「火曜日だから定休日だ、行きたい場所はあるか?買い出しにはいつもでているんだけど」

 定休日に好天であれば愛車を出して、峠に向かうだろう、独り身でもあれば。だが今は重たい雨が空を覆っている。

「そうね」と考えを巡らせて、行きたい場所があるの、と言った。


 そこは三叉路の交差点だった。

 コンクリで固められた排水路でしかない小川に、小さな橋がかかっている。その三叉路に信号機が立って差配している。

 何の変哲もない、その交差点に祐華は立っている。

 以前はそんなにも無口な働き者は立っておらず、一時停止を無視したスポーツクーペが飛び出してきた。

 その鼻面を避けるため流帯に急制動をかけて、後輪を滑らせた。こちらの車体が地面に叩きつけられる瞬間、左手を背後に回して祐華の身体を支えた。その加重が手の甲に集中した、そんな曰くのある交差点だ。

 淡い水色の傘に、喪服のような漆黒のワンピース、健康的なふくらはぎに地面からの雨滴が跳ね返っているだろう。

 そのくらい雨脚が強くなっていた。

 僕はその信号機の下の導流帯ゼブラゾーンに軽を停めて、その様子を見ていた。忌むべき場所であり、この15年余りで初めて再訪した。

 高校を卒業したばかりの僕は、ここまで這って救急車のサイレンを聞いていた。隣にはぺたんと座った祐華が、ヘルメットを取って呆けていた。ヘルメットを外してほしかったが、誰かしら通行人が寄ってきて外してくれた。

 左手の擦過傷が酷く動かなかった。薬指が飛んでいるなんて思いもしなかった。その救急車が搬送するのは自分ではなく、祐華だと思っていた。

 そんな交差点に信号機が立って、幾分その導流帯ゼブラのたてがみも伸びているようだ。

「ありがとう、なんかつかめたわ」と静かに呟いて、彼女は助手席に収まった。何かを問うでもなく、ステアリングを握りエンジンをかけた。

「ここが分岐路だったのね」

 もう傷跡を隠さないその左手が側にある、という理由だからだろうか、祐華の手が、その薬指のない左手を優しく包んだ。


 水曜日はレディースディなので、ケーキがつく。

 女性客が多く、ミニケーキがどんどん減っていく。

 ランチタイムが終盤になると、いつオーダーを停めるか思案することになる。もう夕方からのストックに手をつけようかと考えていた時、呼び鈴が鳴った。

 バックヤードから顔を出すと、祐華が辛子色のレインコート姿で現れた。

「こんにちは、まだランチできるかしら」

 バイトで入っていた史華と、その視線が絡まっていく。それが縺れに成長する前に、祐華は微笑して「そのボウタイ似合っているわ」と褒めた。

 ランチをきちんと平らげ、作法通りにフォークを置いて、ケーキとエスプレッソを愉しんだあと、祐華は去って行った。

 それを見送ったあと、準備中の札にしてバックヤードに行くと、史華が洗い物をしてて、顔も見せずに言った。

「彼女・・帰ってきたのね」

 声が固く尖っている。

 ああ、と煮え切れない返答をした。まさか同居しているなんて言えるはずもない。しかしいつかは知られてしまうものだ。

「まだ、愛情が。あるって、いうの?」

 一句ずつ小刻みに史華は問うた。

 それぞれの語感に彼女が伏せてきた想いが挟まれている。それには真剣に答えなくては、大人の矜持に関わる。

「信じられないかもしれない。愛情というより愛憎というのが当たっている。憎悪という負の感情だって、ある。祐華にはね。感情の振幅幅が広いのだと思う。その広さの分だけ、繋がりが深く染みわたるのだと思う」

 彼女に残された時間が少ないとは言えなかった。

 それは言い訳にしても卑怯だと。

 結局は僕の我儘だと知っていた。

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