第27話 紫陽花の季節
機関銃のように、間断なく降り注ぐ水滴が屋根瓦を乱暴に洗う。
それでも陽の出は早くなっているようで、垂れ下がったカーテンの下隙間から薄明かりが溢れている。
湿気のために、黴臭さが消えない。
いよいよ陽光が恋しくなってきた。
この梅雨の隙間にも、手を翻したような陽光に恵まれる数時間があった。その貴重な梅雨晴れに、祐華は羽毛布団を干してくれたり、衣替えの準備をしてくれた。
キッチンに行き、小鉢にハムを敷いて生卵を落とし入れる。黄身を軽くフォークを刺して、塩胡椒を振っておく。黄身を刺しておくと破裂しなくなる。二つ用意して軽くラップをかけてレンジで加熱する。これで最も簡単なポーチドエッグが出来上る。
それに珈琲を温めて、ヨーグルトにジャムを落とす。バゲットもその都度切って焼いておく。
「おはよ」と寝ぼけ眼で祐華がキッチンにやって来た。
目深にニット帽を被っている。
病院でのそれよりもっといい。
「今日も雨が酷いね。お昼は店でもいいし、冷蔵庫の中でも作って貰って構わない。任せるよ」
もう彼女を引き取って3週間を回っただろうか。自分の言葉使いが柔らかくなるのを感じる。
「うん、荷物が来るから今日は家にいる」
彼女もここを《貴方の》という枕詞をつけなくなった。
「何か食べたいもの、ある?」
「そうだな、和食であれば何でもいい・・ってのが一番困るか。長芋とか、レバー煮とかそんなものでよろしく」
「・・いったい何?精力でもつけようっていうの?やだな、ベッドのなかで緊張しちゃうじゃない」
そう言って朗らかに笑うその素顔を、十年以上も見てきたような気がした。
その週は多忙だった。
受験の気分転換でバイトに入ってくれる史華を、ついつい頼っている自分がいて、自らを鞭打った。もともとは自ら好んで継承した店だ。初めから独りで切り盛りするのを覚悟だったはずだ。
ただ客層としては変わってきたように思える。
史華が提案したmy pair cupsのキープ制は好評だった。通常よりも単価を50円勉強しているが、洗浄と殺菌には手間が倍以上かかる。しかしながら新規の、年齢層の若いペア客を獲得しているのも厳然とした事実だった。
呼び鈴が鳴って懐かしい顔が会釈をしていた。
緩くウェーブのかかった銀髪に、慈母を微笑を刻んだ女性が顔を出して、左手を小刻みに振っていた。
「もう大丈夫かしら」
「ええ、兵頭先生。準備中の札はそのままでお入り下さい」
歩調も小刻みに歩み寄り、「聞いたわよ」と呼吸を整える。
カウンターに手を踏ん張った。屏風岩に向かう登攀者に見えた。肘を支点にしてお尻からスツール席に苦心の登頂を果たした。もうカラビナとザイルを専用に置こうかと考えた。
「今は一緒にいるんだって」
「ええ、ありがとうございます。その後の経過もいいようです」
取り零した記憶が蘇る。
「そういえば先生の伝手つてから、祐華の居場所を教えて頂いたと。それで僕からも一言お礼を言いたいのですが・・・」
「そう、そうよね。じゃあちょっと待っていて。わたしも先方に話をするから」と語尾を濁した。ということは共通の知人かもしれない。邪推するのは失礼とも思った。
「じゃあわたしもそういえばって話を聞きたいわ。この間、祐華さんから預かり物があってそれを届けに来たのよね。あの中身は何だったの?」
あの日、兵頭先生は小紋柄のバッグのがま口を開いて、包みを出した。その包みの配色は僕が彼女の誕生日に贈った、あの時計のラッピングに酷似していた。
「婚約・・とでもいうか・・婚約指輪のペアでした」
あの事故から数日後に彼女が病室に現れたときに、贈られた指輪だった。しかしその直前には彼女の父親から関係の清算を迫られていた。札束で両頬を殴られたようなものだ。
祐華には親同士の定めた許嫁があるという。
点滴を打たれながら、成程と納得した。純潔は野良犬が喰べてしまったが、札束で駆除のきく痩せ犬だと見られていたのだろう。
僕は拘泥しなかった。
むしろ異世界からの、不釣り合いな関係だと知っていた。
それなのに彼女はその指輪にかけて自分の地位を捨てるという。その想いに深い傷を与えてしまった。疎遠になるのも無理はない。
「多分・・彼女は自分の人生の軌跡を追いながら、その清算をあちこちでしていたのだろうと思います。その指輪はきっと受け取らない、しかし先生から預けらたら棄てられもしない。再び逢って突き返すまで大事に手元におくだろう、とそんなことを考えたのだと、僕は思います」
先生は目を見張った。
「まあ何てこと、御覧なさい、自分自身を。あの魅力的な、鋼鉄箱の箱入り娘を理解しているじゃない」
そして祐華は、自分の死を後年に知らせることで、その指輪の価値を永遠に封じ込めようとしたのだ。
帰宅すると出汁の香りが流れていた。
薄暗い玄関からただいまを言って、キッチンに向かう。その廊下に段ボールや梱包クッション類が乱雑に置かれていた。
「おかえり」と言って届いた真っ白のキャンバスを、祐華は胸を張って披露した。
それから。
ほどなくして。
彼女は自身で立てなくなった。
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