第25話 退院

 祐華の退院の日が迫っていた。

 その時期に主治医に呼ばれた。

 前回の面会時に相談されて、選んだ日程だった。

「もうすぐ退院の日が迫っています。これからは緩和ケアという段階になります。少しでも痛みを和らげて患者さんの気持ちに添っていこうと思います」

 痩せて頬骨がでた医師が、タブレットで書類を確認しながら、言った。

「失礼ですが、貴方は同居はされているのでしょうか?」

「いえ、同居はしていません」

「そうですか・・・今後の件を考えますと、同居をされてサポートをしていただくと幸いなのです。婚約者であったと伺っております」

 成程、そういう説明を彼女はしていたようだ。

「・・はい、ですが今後のサポートと申しますと」

「祐華さんは子宮筋腫で5年前に手術を受けています。筋腫とはいいましても基本的には良性腫瘍でして、それから癌を発症するのは珍しいのですが。ですが祐華さんは妊娠を希望されて。妊孕性にんようせいというのですが、妊娠できるよう患部を最小限に切除する処置を行いました。不幸にもその根に悪性腫瘍が残留したようです。今は骨盤に骨転移していますし、子宮の大部分は今回、開腹切除しましたが。ご家族には覚悟が必要な時期にあたります」

「その・・・彼女がそれを意識したのはいつでしょうか?」

「昨年の秋の始めではなかったでしょうか」

 癌患者みたいに痩身の主治医は、淡々と語った。


 あの夜。

 まだ紅葉の欠片もなく、秋が寄り道をしていた夜。

 水出し珈琲の抽出をセットして、その芳醇な香りが滴り落ちるのを眺めていた。そこに扉の呼び鈴が鳴って、祐華が現れた。

「ご注文は?」と僕は、お仕着せのような嫌味な口調でいったはずだ。

 そのときに彼女は微笑みながらこう返した。

「人生の後半生を」

 彼女が注文したのは、日々擦り減っていく人生の後半生だった。祐華は巡礼者のように、自らの足跡を辿って挨拶をして回っていたのだと、今であればわかる。そして自分の後姿を相手の記憶に刻み付けていたのだとわかる。

「生憎とご用意しておりません。時間を彩るお飲み物以外には、ね」

 僕はそう答えた。

 残された時間を彩る注文は、既に受けている。

 

 退院手続きを行った。

 支払いは既に彼女が済ませていた。

 荷物もボストンバッグひとつに収まっている。

 助手席を進めて荷物を積んだ。暫くは無言のまま、ハンドルを取って鎌倉に向かった。フロントガラスに涙雨が残っている。

「雨だね」

「そうしばらくバイクには乗れないね」

「身体は大切にしないと。一張羅で一生モノなのよ、怪我でもしたらお店が困るわ」

「ああ、あんな店でも居場所にしてくれる馴染みがいてくれる」

 祐華が言うとその含蓄が重過ぎる。

 横須賀道を朝比奈ICから降りて彼女のナビに従った。

 北鎌倉に入り、脇道を登っていくと、どんどん道が狭くなっていく。それに比例して背の高い建物がなくなっていく。山際の住宅街の最深部、古びたアパートの前に軽を停めた。高度経済成長期の、歴史的な保存家屋のような建物だ。

「ちょっと待って」と祐華を制してその建物に向きあった。

 霧雨にしては自己主張の強い雨が降っている。

 塗料の剥がれた木造の二階建てで、幾つかは空き部屋のようで扉が乱暴に板で塞がれている。湿気が高いのか、一階のベニアのドアは一部がささくれて、めくれている。

 部屋は二階だと聞いている。そこまでトタンが雨避けとして架けられた、頼りない鉄階段が雨に濡れている。

 かつて自分が契約していたような、老朽化した建物だ。祐華の出自を考えると俄かには信じがたい。

 彼女の屋敷には、執事こそいなかったが家事をする使用人がいた。そのまま社交界の映画が撮影できそうな瀟洒な洋館だった。

「びっくりしたでしょ、住めば都よ」

 助手席からドアにつかまりながら車から降り立った。気後れからか、はにかんでいる。

「荷物はお願いできるかしら」

 ああ、という返事を飲み込んだ。

 そして震える靴先で、その赤錆のでた階段を登ろうとした。その手すりにも皮膚に刺さりそうな錆が積層している。

「ちょっと待った」と彼女を制した。

 後ろから近づいて彼女の背中越しにその手すりを掴んだ。やはり指に甘く嚙みついてくる。

「取敢えずウチに行こう。ここで怪我でもされたら、また再入院なんてことになる。この階段をきみが上り下りするなんて、こっちが落ち着かない」

 祐華は顔を見せずに小さく頷いた。

 

 委任状を書いて貰い、管理会社に再度連絡した。

 担当したのは制服の似合っていない新人だった。

 家具は大してなかった。押し入れを改造したクロゼットに服が並び、3段ボックスには画材が埃を被って主人の帰宅を待っていた。絵筆も油もあったが、まだ使えるかどうかはわからない。

 ビニールのかかったテーブルは彼女の持ち物ではないが、そこに一脚だけあった椅子は彼女のものだ。一瞥しても彫刻が巧みで、好みの椅子だ。

 部屋は荒れていた。

 インスタント食品の袋ばかりが落ちている。それと処方箋と薬の空袋も落ちていた。女子が好むような雑誌などもない。メイク道具は病室にあったものが全てのようだ。

 箪笥をうっかり開くと下着を入れた引出しがあって、そっと封印して丸ごとレンタカーの軽トラに積んでいる。

 そうして契約の解除を行って、角の擦り減った鍵を管理会社の女子事務員に手渡した。


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