第24話 滴る水
この傷を埋めるのに、僕では不足か。
口から零れ落ちた。その瞬間に顔が強張った。ただしそれを軽口で否定はしない。
「何それ、今更、
「ああ、そうかもしれない」
その病室には6床あったが、気配があるのは4床でしかない。身じろぎをしている音、席を立って外に歩くスリッパの音。息を凝らしていた影が緊張に耐えかねてか、密やかに身動きを始めた。
人間にはそれに聞き入るタイプと、遠慮をするタイプとあるらしい。
「それでお仕舞なの」
祐華は余裕のある瞳になった。この空気はよく躾けられてわかっている。
自分のポーチをウエストバッグにして病室に持ち込んでいる。
その中から彼女の時計を取り出した。
あら、と小声で言って、点滴チューブの入っていない右手を差し出して、手首をこちらに向けた。
片膝をついてその手首をとって、文字盤を内側にベルトを締めた。彼女は軽く拳を握って、じっと秒針を眺めていた。そして花弁が解けるようにゆっくりと手を開いた。
「いつかくれるんだろう、と思っていたけど。婚約指輪はもう持っていたのね」と静かに笑った。
でもね、と言って厳しい相貌になった。
「でもね、それはないと思うの。貴方に酷いことをしたのは悔やんでいる」
七瀬のことを言っている。それについては祐華に罪はないと思う。むしろ彼女が責めるべきは僕の意固地さだと思う。
かつて馴染みのバァがあった。
七瀬が愛用して、通っていた。
再開した二次会でも誘われた。
店の照明も入り口付近は薄暗がりになっている。古風な見た目の公衆電話が壁に設置してあり、さらに紅色のシェードをつけたナイトランプが、滲んだ光を放っている。
僕はそのバァのスツールにとまり、式に呼ぶ友人と、二次会から来てもらう友人との線引きを七瀬としていた。
「あら・・・」
あの病室で別れて以来の、祐華がそこに立っていた。
「どうしたの、久しぶりじゃない」
一言も返せず、思わず革手袋をはめた左手を隠した。
まだ傷跡には赤紫の肉芽が残っていて、他人の視線を集めていた。説明するのに倦んでいて、当時はその革手袋を欠かすことはなかった。
「なに?ご挨拶ね」
無視しているのね、と畳みかける口調になった。
「こちらこそ、お久りぶりね」と型で鋳抜いたような口調で答えたのは、七瀬だった。祐華は、怪訝そうな面持ちで七瀬を見返した。
お互いの視線が宙で絡み合って、互いを値踏みしている。
「ごめんね、二人でちょっと立込んだ話をしている」
文脈が揃い、意味の通じる溜息をついたが、彼女には耳にはただの溜息として届いていた。
「ああ!」と小さく叫び「そういうことね」と結んだ。
七瀬がそっと僕の腕をかき抱いて、胸を押し付けていたからだ。
「確か先輩でしたよね。図書委員をしていた」
「そうね、懐かしいわ。本当に卒業以来よね、相変わらず貴女はきれいだわ」
「先輩だって、可愛いわ」と祐華がいえば高度な嫌味に聞こえる、そんな女性だった。七瀬は歯を食いしばっていた。
その指先のネイルが、この腕に刺さりそうに力がこもっていた。
廊下で車輪を押す音がしている。
作業中の看護師が何かを話している。
キャリーで重い機材を運んでいるようだ。
「・・・それに生存確率でも2割よ、5年先生存がたった2割なのよ。自分のことだけなら何とかなる。ちゃんと保険に入っていたから・・」
「ただ支えてあげたい、それだけでも不足なのか」
「支える・・・か。でもそれは私が重荷になってるということよ」
ぴしゃりと畳み掛ける。彼女の芯の強さはここにある。きっと再び立ち上がるだろう。
「・・その時計の針は止まってはいないよ。ずっと持ち歩いて、
秒針が止まる瞬間には、自分の存在はなくなるだろうと瞬間的に考えたが、踏みとどまった。今度は顔には漏らしていない。
「そうね。入籍はしない。同居もしない。お互いに作ったものは全部食べること。それは私が食べる機会が多いと思うわ。だからちょくちょくお店に行くね」
それでは今と大差はない。その距離感を維持していきたいということだろう。
「それと私は貴方の身の回りのお世話をするわ。繕いものをするし、編み物をして。それに水廻りの掃除とか、手が届いてないわ」
成る程、と虚をつかれた気がする。次の瞬間には、僕の店はどうなのかと考えた。そして頻繁にゴム手袋をした、史華の姿が浮かび上がった。彼女の内助の功をこれほど実感させられたことはない。
「そして・・・」
言葉を紡ごうとしてその糸口を探っている、そんな沈黙が流れた。
「絵を描こうと思うの、120号以上の大きい作品を。描くのに時間がとっても、とっても必要な筆致で」
斜向かいで咳こむ人影がいる。
立会人もここに存在している。
あるいは約束を交わすには、相応しい場所だったのかもしれない。
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