第23話 梅雨晴れの邂逅

 路面に陽炎が湧きたつ陽気だった。

 7月に入っても鈍色の梅雨空で陰鬱な気分であったが、その朝は初夏に塗り替えられている。芝居の暗転で、瞬時に舞台が早替りするような一晩だったのかもしれない。

 僕はガレージから愛車を繰り出して、ゆっくりと跨った。

 

 雨滴を浸透させたアスファルトが軟らかく感じる。

 風に梅雨の名残が色濃く残り、湿度が苛立たしい。

 銀色の弾丸のように、ぬるい大気を斬り裂いている。

 鼓動が全身に伝わってくるが高揚感は既に失った。

 むしろ自分自身に語り掛けることが多い。

 この愛馬は自らを鏡のように晒しあげる。

 頑固なのは、意固地であったのは誰か?

 走馬灯が、車列の隙き間から溢れてくる。

 風の回廊を手繰り寄せて、貫いて駆ける。

 

 純喫茶を閉めて自宅についたのは夜半だった。

 ガレージには梅雨で封印していた愛車が埃を被っている。

 点灯するとヤモリが驚いて、裸電球の死角に消えた。逸る気持ちを抑えないといけない。何か手を動かして焦燥を散らすことが必要な夜だった。

 そこには梅雨の期間、愛車が独りで佇んでいた。

 外していたバッテリを繋ぎなおし、車体を前後に動かしてピストンの上死点を探した。それからキックペダルを出して、鞭をくれるように体重をかけてキックした。くぐもった声でエンジンが咳き込んで、咳き込んではまた眠りにつく。

 数度、それを反復した。

 無理もない。

 五月晴れの気候を最後に眠っていて、寝起きにこの湿気を吸い込んだのだ。起き抜けに、度数の高いブランデーを呷れば、誰だってむせるだろう。

 慎重に軽くスロットルを煽る。滅多に出さない白煙が出ている。深夜に近いので申し訳ないが、しばしブリッピングを行っている。

 喘息患者のような排気が落ち着いて、静かに均等になっていく。

 機嫌を直してくれた、いうことだ。

 これで明日は遠出ができる。


 電話を貰ったのは日曜日のランチタイムだった。

 相手が兵藤先生ということと、折り返しの電話番号だけを確認して、切った。一息つけたのはスィーツの在庫が切れてしまってからだ。

 スマホから電話を入れると、すぐに彼女が出た。

「お久しぶりです。先日から色々とありがとうございます。この無粋な芸術を解さない教え子を今後もお導き下さい」

 しかし電話口の彼女は、その軽口にくすりともしなかった。

「待っていたの、あなたの電話を」

 その重い口調にはっと酔いが醒める気がした。

「祐華さんの居場所よ、連絡があったの。いえ伝手から、なんだけど」

 スマホを固く握りしめた。そのまま耳に埋め込みそうに押しつけた。

「ペンは持ってる?大丈夫?」

 大丈夫です、声が掠れているが届いただろうか。

 そうして彼女は病院名を告げた。

「聖マリエンヌ病院、婦人科で抗がん剤治療を受けているわ」


 受付にいくと婦長がメモを片手に現れた。

 兵藤先生が先に電話を入れてくれたのだ。

 婦長は経験値の分だけ白衣の中身を充実させている。それに中身にそぐわない大股で、ラインの引かれた緑色の廊下を案内していく。

「ご面会の方ですよ」と6人部屋に案内された。

 それぞれのベッドにはカーテンが引かれて、テントが居並んでいるようにも見える。婦長がそのひとつを開けると、祐華がそこにいた。

 点滴の器具が宙に浮いている。

 少し、いや痩せている。そして頭部に灰色のケア帽子を被っていた。そちらの中身もかなり痩せている。

「バツの悪いとこ、見せちゃったわね」

 そう言って舌を小さく出した。

「もう少し時間を置いて欲しかったな。イメチェンしたかなくらいに伸びるくらいに」と両手を帽子にかけて微笑した。

「嘘をつくからだ」

 起こした半身にシーツを巻き取って、右手でそれを抱きしめた。管のついた左手を隠したように見えた。

「途中までは真実だったの、いやそう信じこんで耳を塞いでいたのね」

 声音はことさらに明るい。その明るさに一種の諦念が逆に透けている。

「でもね。既視感デジャヴュのある出血がとまらなくて、とうとう人間ドックを試してみたのよ。盲信してたのは無知だったということよ」

 症状は、という問いをかみ砕いたが、呑み込みきれなかったようだ。

「ステージ4ね。それでも2割は生き延びるそうよ。私は逆に日数が限られているほうが、気が楽だな。その間に行きたい場所をもう一度見て、会いたいひとに会うのよ。忙しいわ」

「食欲はあるのか?よかったらと思って、昨日の売れ残りで悪いが・・・」

 夜明け前に焼きあがった洋梨のシブーストを取り出した。タンクバッグに保冷剤を入れて運んできた。

 祐華は右手だけでそのひとピースを平らげた。紅茶を淹れたがそちらには手を出さなかった。

「触ってみてくれる」と彼女はこの指先をシーツの中へいざなって、パジャマの内部を触らせてくれた。

 湿ったガーゼの下に傷口が脈打っているのが、判る。

「ふふ、いやらしい気持ちになってくれても、いいわ」

「生憎と歳を取ってしまって、心も肉体も融通が効かなくなった。凝り固まって頑固なものだよ」

「そうね、お互いにね」

「・・・この傷を埋めるのに、僕では不足か」

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