第22話 June Bride

 梅雨が始まった。

 曇天が重く垂れ込めて、蒼天を遮っている。 

 湿気は空を覆うばかりか、服の隙間にまで潜り込んでくる。吹いてくる風も水分を含んで、生温かいし重たく感じる。

 季節感にあまり不満を言わない僕が、唯一、不愉快な季節になっている。

 この時期にはアシには軽自動車を使って、バイクは封印するようにしている。

 転倒でもして貴重な個体を無駄にしたくない。もう外装パーツは新品では出てこないし、専用設計のパーツは法外なプライスタグを下げている。

 それに夏野菜の受取りには軽の方が便利なものだ。農家と個別契約をして、農薬を減らして生産してもらっている。

 初夏に向けて様々なピクルスを作っている。

 家庭菜園でもハーブが葉を揃え始めている。

 夏野菜の艶々とした色を保つ配慮がコツだ。

 白磁の皿に置くだけで、ランチプレートに彩りを加えてくれる。季節感をひとつまみ加えるだけで、一見客が顧客に確変するのだ。

「遅くなっちゃった、マスター」

息を弾ませて史華が入ってきた。

「いいさ、今日は模試だったんだろ。20世紀の頃からそうだった」

「そんな大昔、昭和時代から悪き風習が続いていたのね。この時期はさあ、湿気のせいなのかな。偏頭痛がとれなくて、模試はさっぱりだったよ」

「それはご挨拶だったな」と口を切って「まだ痛むのか」と訊いた。

「ちょっとね」

 水出し珈琲をドロアから出して、サイフォンにかける。

「そういう時はこれがいい。奢りだよ。カフェインに効能があるそうだ」

「ありがと・・・何だか逆のような気がするけど」

 史華は受験生なので多くは頼めない。それでも彼女の頼みでジャムを手伝って貰っている。英単語を覚えながら果実を煮詰めるのが、集中力が上がっていいのだという。

「今日はね。杏とブルーベリーができたよ」と言って蜂蜜の瓶に小分けされたジャムを数個、取り出した。

「おお。いい嫁さんになれるな」

「なってあげる、というのは?」

「僕はいい旦那さんになれない」

「わたしがそう躾けてあげるわ」

「癖がついた成犬は、難しいよ」

 そう言うと彼女は笑い声を上げた。

 鋭さに欠けて凡庸な返しだと思った。

「やだな、6月なんで意識しただけよ」とあっさりと返して、カウンターに置いてあるエプロンを制服の上からかけた。

「これも気分転換でやってるんだからね」

 これまでと違う感情の置き方がある。薔薇の手入れをしていて、痛みを感じなかった違和感に近い。

 あるいは飽きられたか。

 明確にそうとは言えないが、意図的に距離を置いた気がする。

「なぁに?6月の花嫁に覚えがあるの?」

「6月は厄月なんだ。固定資産税も住民税も、今年度の納税が始まる。株主総会もあれば通常国会も延長するだろう。駐車違反の反則金も払ったし、交通事故で怪我もした。大人しく首をすくめて夏を待つのがこの季節だよ」

「バッカ馬鹿しいわ。つまり大人は守りに入る時期なのね」

「そうだね。言い得てる」

 固まっていない傷口を庇うように、お互いがそれの話題を避けていると思っていた。

 祐華の行方はわからない。

 彼女の時計はいつも持ち歩くポーチのサイドポケットに納めている。自動巻きなので持ち歩いて螺子を巻いている。時間を確認する度に、胸に棘が喰い込む。

 この時計の秒針が止まるのを見たくはない。

 彼女の時間を、その心拍を、蝋燭の火を風から護るように、遠めで庇っている気がする。触れると火傷を負うような女性だとこれまでの付き合いで理解している。現に矯正が厳しいほどに、妙な癖を持っている。

 

 もう6年にもなるのか。

 当時は、七瀬との婚姻の準備を進めていた。

 その6月の花嫁が彼女の希望だった。

 苦手とするその陽気に、わざわざ正装をして賓客の前に立つのが億劫だと思っていたが、沈黙している方がいい。新郎はあくまで黒子であり、新婦のための披露宴だと式場の係員に丹念に躾けられた。

 式名簿には新婦側の列席者が並び、新郎側には指折りの精鋭が集っていた。つまり二桁にやっと辿り着く程度の近親者しか残っていない。

 お色直しのドレスを選び、その日は解放された。

 家では食事の用意をしてなかったので、二人で自分の純喫茶に入った。そこならばストックが沢山ある。有り合わせで良ければ手軽に作れる。

 オリーブオイルに唐辛子を浮かべて大蒜をスライスして炒め、刻んだ玉葱を加える。パンチェッタの余りがあったので、刻んで加えた。

 そこにマリネしてある夏野菜を加えた。

 パスタを茹でて、ソースは塩胡椒で味を整える。

 背後を振り返ると、もう七瀬はスープを温め直している。パンの焼ける芳香が広がりはじめた。もうここまでふたりで呼吸が合ってきている。

「夏が来るな」と食事をしながらふと呟いた。

「貴方の夏は、海か山かというと、きっと山の方よね。暇さえあれば峠にいるよね」

 と笑いかけた。少しそれには反論を加えたくなるのは、生来のヘソ曲がりだろう。

「いいや、海も満更でもない。それより君はどっち派なんだい?」

 七瀬は組んだ指を軽く背伸びをしていた。それで呼吸を整えて、溜息と共に言ったので少し掠れていた。

「海は・・・ちょっと苦手なのよ」

「どうして?」

「涙の味が、するから」

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