第21話 抱擁
夜更けに珈琲を淹れた。
ソファでうたた寝をしていて、目覚めると妙に意識だけが覚醒している。
それでキッチンに立って、夜更けに珈琲を淹れた。
身に染みついた習慣なので、意識を向けなくとも身体が自然に動く。それでも計量の正確さと、ハンドドリップの手際にも自信がある。
走り慣れた峠を流していくときもそうだ。
脳裏では考えに耽っていても、遠心力の挙動には身体の方が反応していく。金属製の愛馬から路面のうねりまで伝わってくる。
古民家の床鳴りのするキッチンから自室に戻り、ソファに座る。遠くに自動車の行き交う音がする。初夏まではまだ遠い。なので肌寒いくらいだが、指先に伝わる熱だけが頼もしい。
僕は空洞になった心にドリップを落としていくように、そのカップを傾けた。
精密機械の密かな駆動音が聞こえるような気がする。
カウンターに置いてある、腕時計。
その心音が夜の底で拍動している。
ふと耳元で聞いた寝息を思い出す。
それは祐華の息か、七瀬の吐息か。
些細な出会いだった。
七瀬は高校の同窓会で再会した。
担任の教師が急逝したので、学窓が集結してお悔やみに行った。その帰り道に同窓会が企画されたらしい。
成人式にも参加しなかったくせに、不意に重い腰を上げてしまった。
この純喫茶を継承した頃で、下心が滲んでいて封じ込めたい記憶だ。
馴染客の大半は先代からのお客様で、同窓からの新規開拓を考えた。
その同窓会には多年度の学友が集っていた。
七瀬は僕の2学年上で、高校時代の見覚えはこちらにはない。
「何だか雰囲気が変わったね」
「そうですね。変わり者は相変わらず、とはよく言われます。先輩はずっとこちらですか?」
「やだな。卒業してもう10年近いわ。世間の水をお互いに体験したでしょ。先輩後輩の括りは息苦しいわ」
とはいえ同輩に対する物言いではないな、とは第一印象では思った。それでも慎ましかやなひとだと、会の終盤にそう感じるほど優美な振る舞いだった。
その時は名刺を渡しているだけだったが、数日して名刺に載せたSNSに連絡があった。それでその週のお勧めのメニュー写真を送信した。
そういえば送信したのは、買い替えたばかりのiPhone5Sだった。その時期からだろうか。お客様がスマホで料理写真を撮影する風潮が当然になったので、厨房に立つ身としては見映えにひと周り気を配るようになった。
反応はすぐにあった。
そして翌日には来店があって、話が弾んだ。
昔から着慣れたレザーのように、やはり肌にしっくりとくる女性だと思った。彼女には祐華のような美貌はない、だが愛嬌と慈愛を瞳に宿していた。
数日と開けずに七瀬は店に現れた。
その頻度に別の意味が隠れている。
世間の水でその機微を学んでいた。
当時の住まいは実家だった。
祐華との小部屋は解約していた。
実家の名義は母にあり、遺産として継承していた。古びた木造住宅だが、敷地の方に価値がある。父は居たはずだが、母は多くを語ってはいない。幼い頃から、食卓にのせる事柄ではなくそっと飲み込むものと判っていた。
母の死後、その家はやけに広くなって、やけに寒々しくなった。
その土地と家屋を手放して、継承した純喫茶の譲渡金としてオーナーに渡すことを決めた。
「馬鹿なことをしたな」
末期癌で痩せ細ってしまった彼は、病床で静かに笑った。店の継承を済ませて一年にも満たない時期だった。
「借りは返せる時に返すものだと学びました」
そう答えると、彼はその資金の使い道を告げた。
今も彼の遺言として受け止めている。
その年の初秋を迎えた。
オーナーの葬儀と埋葬を済ませた。
参列者は僕と七瀬だけの密葬にした。
葬儀の前後からだろうか。
暗闇で吐息を聞くようになった。
夜半に目が覚めて、隣の音律に耳を傾けた。
ナイトランプの灯が肌に影をつくっている。
お互い直に、素裸を寄せ合って眠っていた。
産毛が金色に輝いていて、なだらかな曲線を夜眼で眺めた。ふくらみの裾野に静脈が青く広がっている。
命がそこに凝集したように、紅く尖ったその先端を、そっと指で転がすと七瀬の肌に細波が立った。苦笑しながら「くすぐったいわ」と半ば掠れた声で言った。
ああ、と呟きながら半身を被せてきた。
それから念入りにキスを交わし続けた。
重量感のある髪が上から被さってくる。
「わたし、貴方たちが羨ましいと思っていたのよ、高3の頃よ。ちょっと応援してた。草葉の陰からだったけど」
ふいに斬り込んできた。
その鋭さに言葉を失う。
七瀬も刃を隠していた。
丸腰で恋に歩みゆく女性を、僕は知らない。
彼女はひとつ下の祐華のことを言っている。
その後の顛末は同窓会の続く限り、酒場の陰で語られる。それも当人不在で尾鰭という風味を足して、まるで欠席裁判のように。
「その話題は勘弁して欲しい」
「そうね。わたしも応援という言葉で括れないほど悔しかったわ」
裏腹に胸を張ってきて、腕が僕の後頭部を絡め取った。
その胸を愛撫させるのは、彼女の勝利宣言だと思った。
記憶が蘇ると、珈琲がさらに苦く思えた。
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