第20話 継承

 婚約者ができた。

 もう5年前になるだろう。

 年下の普通の女性だった。

 そして小花特有の愛嬌のある人だった。

 例えるならば目立たない霞草のようだ。

 花言葉も感謝とか幸福という凡庸さだ。

 霞草は白い小さな花弁を揺らして、どの花束にも皆勤賞のように存在する。主役の背に一歩引いて、それでも可憐に主役を支えている。

 つまり霞草のように彼女は妙な緊張感を押しつけないし、その隣は冬の陽だまりのように温かだった。

「婚約指輪を買おうと思うの」

 そう彼女が切り出して、僕は押し黙った。バイク事故のために薬指を欠損していたからだ。触れては欲しくない話題だった。

「大丈夫よ。あなたのはわたしがつけるから。いつも一緒に並んでいるのって可愛いじゃない」

 そう言って微笑んでくれた。

「ありがとう。いつも支えてくれて」

 僕はそれまで祐華としか恋人関係を結んではいなかった。

 祐華は大輪のダリアのように衆目を集めてはくれるが、僕自身は当時、剃刀の上を歩くような気分だった。

 大輪の美は手入れも大変なうえ、気位も高い存在だった。

 ダリアの花言葉は優美とか、気品などの高貴な字句が並ぶが、その反面で裏切り、気まぐれという裏面の字句もある。

 花言葉さえ、対極にあった。

 

 あの事故から無為の日々だった。

 砂を噛むような生活が連なった。

 祐華は、もう訪れることはない。

 リハビリ中で機械整備の仕事は出来なかったが、通院期間中は事故の保険金が相手方より振り込まれていた。むしろ貯金さえできそうだった。

 さらに口座には、祐華の父からの手切れ金が惰眠を貪っている。貧しい生い立ちだが、鈍してはいない。いつかは自分の場所を築きたい。そのために資金を作っていた。

 この辺りに店を持ちたいという格好の場所で、見聞のために扉を開いたら、聴き覚えのある呼び鈴の音がした。

 窓にはステンドグラスが収まっていて、戸外の空気を隔てていた。

 濃密な芳醇の香りが満ちている。

 磨き込まれた調度品、華美ではないものの丁寧な仕上げを施された椅子がカウンターに並んでいた。どの家具も年輪の厚みがあり、やや落とされた照明が漆喰の壁に陰影を刻んでいた。

 どこか見た事のある店に、旧知のマスターが平服で立って微笑んだ。あの峠では彼はホテルの支配人のような蝶ネクタイをしていたものだ。

「いらっしゃい。久しぶりだね」

「驚きました。いつからここに」

「先月からだよ」と額に皺を寄せながら笑った。

「見たことあるお店だと思いました」

「体調を崩してね。それであの店は閉めたけれど、家具は貰っていたの。必ず再開すると自分で決めていたからね。君は今、何をしているの」

「交通事故でリハビリ中ですよ」と言ってガーゼに包まれた左手を見せた。

「そうか・・・君も大変だったな。もし良かったらここでまた修行しない?」

 その言葉で生活が一変した。

 それまで機械油が爪先に詰まっていた手で、食器を洗い、食材を切って、さらに珈琲を入れる。それらの一連の動作を身体に染み込んでいく。

 マスターの技術が身体に浸透していく、と同時にますます自分の店を欲しくなった。

 ただしその純喫茶の時給だけでは生活は賄えない。

 数年間はいくつもの仕事を並行してこなしていた。中には東日本大震災の時に、プレスライダーという剣呑な仕事も請け負っていた。

 

走馬灯のように季節は巡る。

 一通りのメニューを叱られずに淹れることが出来るようになって、マスターが神妙な顔で「話がある」と言った。

「・・実は膵臓に癌が転移していてね。よかったらこの店を委譲したい」

 はっとして彼の眼の奥を覗き込んだ。

「冗談ではないよ。余命がもう3ヶ月といわれた。私には近親者がいないし、今から再びこの場所を自ら切り刻んで片付けていくのは、我が身が削られる思いなんだ。それに以前の店からの常連のお客さんの居場所もなくなる」

 真剣な面持ちで続ける。

「・・葬式は無用だよ。遺骨は相模湾に散骨して欲しい。そんなことを君に託すのは酷だとは思うが。この店の委譲にしても贈与税分が残る程度の保険金はあるよ。良ければその受取人になって欲しい」

 そして保険会社の名前が刻印されたファイルを取り出した。

「身寄りの方は本当にいらっしゃらないのですか」

「初めての店は、神戸の六甲に出していた。神戸の震災でね。私一人が生き残った。たまたま同窓会で鎌倉に帰っていたんだ。残ったのは抜け殻のようになった自分自身だ。あの峠の店にもよく来てくれたよね。アレを自分で造りながら、立ち直れた。それでも癌の最初の発症だ。ここで再起をしている矢先、去年の冬に君が現れた」

「僕も絞りかすになっていましたよ。あの頃は思い出したくもないです」

「よかった。あの表情を見てすぐに判ったよ」

 マスターはその粉の計量の巧みさに匹敵するように、診断通りの日数を生き、穏やかな顔のまま旅立った。見事な生き様だと思った。

 お膳立てを全て整えてくれた、彼の店を譲り受けて現在に至っている。

 それが指折り数えては6年前の冬のことだ。

 店名はその当時も今も変わらない。

 あの香りのままだ。

 

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