第15話 Hand Drip
峠には寒風が吹いていた。
そこまで辿り着くにも、先輩の四輪を出してもらうあり様だった。
左手のリハビリはまだ続いていた。移植した皮膚が伸びきらず、指を曲げてもしっかりとホールドできていない。コーナーでセパハンを捩じ伏せるような握力は期待できなかった。
しかも薬指の欠損が、これほどのものかと予想外だった。
人差し指や中指ほど力強くなく、小指ほど器用でもない。
指輪のための予約札を置いてる程度の存在と思っていた。
幸いにも利き手ではないのが幸いだとは思う。文字を書くのは問題ない。器を机上に置いたまま支える程度なら食事も不便は感じない。
「・・この先でいいのか」
「すみません。次に左手に見えてくるはずです」
「多分、閉店してたぜ、去年の秋には。とりあえず連れて行くけど、気持ちが済んだら引き返すぜ」
冬場の交通量の少なさでは営業は厳しいだろうな、とぼんやりと思った。
「まあ自分の眼で確かめたいんだろ」
「すみません」
その言葉を何度も繰り返して、結局は張り紙のされた店舗に辿り着いた。その純喫茶は移転していて、その住所部分を携帯で撮影した。
もう一度、その言葉を口にすることになった。
基本はいつもシンプルだった。
まずはハンドドリップからだと教えられた。
彼の口調をなぞるように史華を指導している。
「まずは軽量を正確にすること。そしてお湯は沸騰させてはダメだね。沸騰したお湯では珈琲に雑味が混じる。それにここでは湧水を汲んで使っている。硬水に近いので苦味が増すんだ」
計量スプーンにきっちりと収まるように、小刻みに振るっている。その側には温度計をさしたケトルが火にかけられている。
「沸騰する寸前なんてよくわからないわ」
「蓋を開けても見にくいからそこは経験だな」
慎重にドリッパーにケトルからお湯を注いでいる。その水分を含んで豆が膨らみ生き物が伸びをするように膨らんでくる。
「その状態で30秒を蒸らしてやる。それで香りが良くなる。それからゆっくりとのの字を書くように豆にお湯を加えていく。最後に大事なことだ。ドリッパーから落ちる最後の一滴は落とさないこと。その一滴には雑味が濃く含まれている」
史華のたっての願いで、教えている。
彼女も高校3年生を迎えて、進路について悩んでいるようだ。
「お手伝いついでに珈琲とお料理を教えてよ。ひとり暮らしになるかもしれないから」
「おお、遂にその言葉を聞けたか。ここからも卒業式をださないと。感慨深いね」と軽口を叩くと彼女は鼻を鳴らした。
「第一志望は横国大だから、そこに合格できればここの卒業は、まだよ」
とはいえ料理を学ぶということであれば、学業面で家を離れることはまずまず織り込み済みの覚悟なのだろう。彼女は自分で淹れた珈琲を一口飲んで、悔しそうに「違うわ」と言った。
「何だか味気ない。香りも少ない」
「お湯の注ぎ方だよ。一回で注ぎ切るのか、三回に分けるのかでも違うし。そもそも水だって自炊では違ってくる。煮沸した水道水で練習した方がいいと思う」
「それが飲めなくなるってのは、辛いな」
と手本に僕が淹れた珈琲をとって、一口飲んだ。
「ヤバいなあ、受験勉強の時も飲みたいんだ。頭がスッキリするから」
ふふんという笑みを見せて、距離を詰めてきた。何だか耳打ちしたそうな素振りなので僕は顔を傾けた。
「側で支えていてくれるような気がして」と頬に唇が触れそうになったが、それはさりげなく距離を置いてみせた。そんな言葉は秋口に聞いたばかりだった。
「マスターはさぁあ、幾つの頃から珈琲修行をしていたの?」
「高校生の頃かな。峠に純喫茶があって。まあこの店の前オーナァだったんだけど。そこにバイクで通っているときにいつの間にかね・・・」
「じゃあスタートラインは変わらないんだ」
「ただね。事故してね」と言って薬指のない掌を見せた。甲の部分にはケロイド状の擦過痕があるので、余り他人には見せたくはない。
「ちょっと働くこともできなくて、リハビリしていた頃に、移転先のこの店で練習したんだ」
「・・このお店は2代目なんだ!じゃあこのレトロな椅子もそうなの」
「そうだね、戦前には貴族がいて。その別荘地が在日米軍専用のホテルになって。そこからの払い下げらしい。その椅子もテーブルも昭和初期の製造だよ。時々はメンテナンスで家具職人に出しているよ。座面も三回ほど張り替えたりしている。良いものは使い続ければ輝きを増すものだよ」
へえと言いながら史華は椅子のアーチを描いた背もたれを撫でていた。
「・・知ってる?5月になったらわたしも18だよ」
「選挙権も持てるようになったなあ。大人への階段は一気に上がるなよ。生き急いでしまったら、僕のようになる」
ほっとため息をついた。じわりと重たげな睫毛が羽ばたいた。
「それを目標にしてるんだけどな」
低い山なんて超えていけ、と嘯くのは簡単だ。
この娘の視点はまだまだ低い。
遠くを見渡せるにはまだ若い。
かつての僕たちがそうだった。
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