第16話 自動巻の時計
目覚めに鶯の声がする。
北鎌倉にも春が色めく。
花の香はだが届かない。
都会の狭間に残置された森のなかに、僕の棲む古民家がある。
幹線道路に接しているのは、所謂、赤路と呼ばれる細い農道しかないので、基本的に軽自動車しか入れない。もしくはバイクがあればいい。そのために家賃が安いので、自分のために留め置かれていたような物件だと思った。
一歩入った鍵状の窪地でも、早朝から道路を揺さぶるトラックの排気音が喧しく届いてくる。まず鶯の声を耳元に捉えた朝は、それだけで目覚めがいいものだ。
最も厳しい眼で評価するのは自身であると判っているので、焙煎とドリップには手を抜かない。
昨日、ランチに出したパニーニの残り物をトースターで温めて、簡単に朝食を済ませる。テーブル上には時計がある。かつて僕が贈ったものだ。そして祐華が故意に店に置いて行ったものだ。
あれから後を追いかけたが、彼女の姿は都会の夜に溶けてしまったらしい。この近所に住居を移したらしいが、連絡先は受け取っていない。実家の場所は知っているが、その敷居は僕にとって天空に届くほど高い。
それでも時計は秒針を正確に動かしている。
彼女の時間は、止まってはいない。
銘水を汲んでから店に入った。
ランチタイムまでは時間が惜しい。
今月はtakeoutも出来るようにパニーニサンドを販売している。ランチがてら公園で花見をしたりする客が絶えないからだ。
カウンターにその時計を置いている。
スイスから渡ってきた整然な文字盤をした時計。金無垢のケースの中で自動巻きの秒針が、精緻に時間を刻んでいる。
僕が祐華に贈ってから、15年になるか。
彼女の持ち物はどれも高級品ばかりで、何を送るべきかを悩んでいた。どの選択も陳腐になりそうだからだ。自分が異分子だと判る専門店で、緊張しながら説明を聞いて選別をした。僕には0の桁数しか理解はできていない。
僕にも手の届く洋食屋で、ラッピングされたそれを渡した。
それからその包みを白く細い指が解くのをじっと凝視していた。心臓の鼓動が耳元でしているようだった。
「・・・時計じゃない」と弾んだ声がした。
「ありがとう。時計持っていなかったのよ」
「そうだね。不思議だった」
「作品を作り出すとね、時間が経つのを忘れてしまうの。それに作品の出来映えで合否が決まるでしょう、私の場合。それで敢えて持ってなかったの。時間は携帯で見たらいいし。試験中は教室の時計があればいいから」
「時間には縛られたくはないんだね」
「でもいいわ。何だか時間を共有できるような気がするから」
彼女は東京の美大に推薦合格して通っている。僕は実家から安アパートに引っ越したばかりの頃だ。高校で顔を合わせていたようにはいかない。そしてこのアパートの鍵はその当時は渡してはいない。
二人で乗るために購入したバイクよりも、遥かに高価な贈り物ではあるが、新生活へのお祝いをしてあげたかった。
「・・そういえば美術部に行くと、薄暗がりの中で制作に励んでたっけ」
「そうなの。流石に追い込まれていたわ」
彼女は自分の乳房を造形した習作を、入試制作には出さなかった。
入試政策は、砂漠のように広大なカンバスに、中世の街並みに似た風景を描いていた。最後に描き加えたのは、天空からの光を浴びた裸婦だ。中央広場の中に裸婦が立っているという、そんな宗教画とも現代絵画とも思える作品を提出していた。
その裸婦は当時の彼女よりも年嵩で、肉付きがよかったので、ほっと胸を撫で下ろした。彼女の中身は僕だけの手の中にあって欲しい、そんな束縛にも似た思いが、嫉妬のような想いがあるとは思わなかった。
扉の呼び鈴が鳴った。
準備中の札をかけることもある時間帯だった。
夕食メニューに使うドミグラスソースを煮詰めていたので、低い姿勢を起こしながら「いらっしゃいませ」と声をかけた。
老婦人が小さな身体を小刻みに操りながら、スツールに這い上ってきた。初心者の登攀をガイドしている山男の気分の僕は、カウンターの向こうで肝を冷やして手を躍らせていた。
スツールに収まると、婦人は慈愛が溢れんばかりに眼を細めた。
その双眸に見覚えもあるし、或いは記憶違いかもと躊躇いもある。
「見違えたわね。あなたがこんなお仕事をしているなんてね」
声音とその風貌と記憶がかちりと接合した。
「兵頭先生?」と語尾が法外に駆け上がった。
「客商売するなんてね。この仏頂面で」
「世間を学んできました、この強面で」
そうして笑いを重ね合った。彼女は美術講師で、祐華の部活も指導していた。記憶にある彼女は溌剌としていて、肌もピンと張っていた。
「祐華さんに聞きましたよ。こちらでお店をしているってね」
「ああ、彼女に会ったのですね」
「先週のことよ。そうそう預かり物を忘れるところだったわ」
そうして兵頭先生は小紋柄のバッグのがま口を開いて、包みを出した。
その包みの配色はあの時計のラッピングに酷似していた。
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