第17話 羞恥の素描
有田焼のマグを選んだ。
漆黒のボディに飲み口から金色の霧が降りてくるような色合いのマグだ。取手の反対側に大きな柿が描かれて、橙色に輝いているようにも見えた。
この店のマグでも最上級のカップだった。そこに芳醇な香りのespressoを淹れた。steamerで温めたミルクをピッチャーに入れ、マグを傾けて注いで基本形を置いた。
ラテアートでもフリーポアという基本的な手法だった。今日の豆は焙煎して二週間目で、そのクレマ層が引き立つ濃さだった。
そのクレマ層を呼び起こして絵を描く。
それからピックを手に取り、エッチング手法で枝葉を描いた。ミルクをピックで割るとそこから焦茶色の小鳥の姿が浮かび上がった。
「まあ、梅に鶯が止まっているのね」
「僕なんて、まだ下手糞ですけどね」
それをかつての美術教師が顔を綻ばせて、両手で優しく持ち上げて目の高さで眺めていた。気恥ずかしくて、厨房で縮こまりそうだ。
「これは・・・?」
兵藤先生が手渡した包みを持ち上げて、尋ねた。
「祐華さんが訪ねてくれたの。その時に預かったわ。卒業してからも縁があったのだけど、この十年ほどは年賀状のお付き合いだけね。それで・・・あなたたち、喧嘩しているんだって?」
眼を細めて微笑した。
「もうこの十年ほどは疎遠で、この五年は音信不通でした。喧嘩をするのには時間がなさ過ぎます。ですが去年の秋に突然、彼女がこの店に、ね」
「彼女らしいわね。直情径行で動くのは変わらない」と言いかけて「それに喧嘩をするのは秒でもできるわ」
確かに、と思った。
手間も掛からない。
「祐華さんとお付き合いしてたのよね。高校生の頃から」
「はい。どこが琴線に触れたのか。当時から不思議でした」
「自信なかったの?」
「それはもう。棲む次元が違うと思っていて」
「探究心かしらね、あの娘の。よく言っていたわ。自分とは違う世界を見たいって。だってあのお家でしょう。鋼鉄製の箱入り娘の鬱屈、それを芸術にぶつけていたのよ。時間を経つのを忘れるくらいにね」
違う世界か。
彼女の実家の洋館を思い出す。
財をなしたのは大正期だったと祐華は言った。
溜め息と共に「ただの黴臭い家でしかないわ」と切り捨てた。
それは教科書に掲載されている、所謂、成金と呼ばれていた層だと思う。
鎌倉の相模湾の見える高台の斜面を切り開き、そこに神の置き石のように白亜の木造洋館が建っていた。山側は故意に灌木を残してあり、前面道路までは、平行に銀杏が居並ぶ私道で接続されていた。
鋳鉄の飾りがついた門扉に、衛兵でも置いておかないと説得力のないような家だ。先先代かその向こうかが濡れ手に粟のような財を成したが、そこから1世紀近くも経れば格調という化粧を纏うらしい。
「その違う世界には・・・祐華はあくせくしている庶民の生活とか、想像つかなかったのでしょう」
「いいえ。それは残念。彼女の表層しか理解していなかったのね。湖畔の白鳥が優雅に見えて、あれで水面下ではもがく生き物なのよ」
そのもがく対象が芸術への憧憬だったろう、とその時は思った。
「僕なんて欲しいものがあれば、スタンドで油臭い手をしていましたよ。彼女はテレピン油で絵具を溶かしていたのに」
「・・・進路相談の後かしらね。気になる後輩がいると聞いたの」
「でしょうね」
「何かが違う人がいる。その人は自由な空気に生きているって言っていたわ」
「・・勝手にバイク乗ってただけですよ」
「ああ〜校則違反なんだ!・・でも結果的に彼女の背中を押したのは、わたしなのよ」
「先生が?」
彼女は少し顔を曇らせていた。
「そうねえ。気になる素材って、手に取りたくなるものよね。指が一番記憶に残るのよ。眺めていては、芸術家としては臆病だわ、と」
彼女は僕の肌をよく触ってきた。
髪に触れて肩に触れて、そして胸でかき抱いてきた。それに情欲を覚えたのはこちらの方かもしれない。
「結果的に追い詰めてしまったかもしれないのよ。教師としては失格ね」
「彼女が追い詰められた?」
「しかも金銭的にね。ああ見えて旧家というのはお金には厳しいのよ。あなたが病院で受け取ったという大金ね。彼女は全額を実家に返済してたわ・・・あの事故の一件で、彼女の立場は悪くなったの。もう許嫁がいた時期だったのよ」
「そんな、彼女はまだ高校生ですよ」
「あの家系ではどんな進路に進もうと、穏やかな婚姻は無理なことだったの。芸術は、上級社会の柔らかな檻の中で、展覧する芸のひとつでしかないの。或いはその経済力を示す指標みたいなものよ」
息を弾ませて歩みを進める、あの横顔がふっと浮かんだ。
「婚約に買った指輪もね、彼女の家ではなくて懐からでたものなの。美大の費用も奨学金を使って、全額を支払ったの。彼女には試練だったとあなたは想像出来るわよね」
「どうやって、どうやって祐華は返済したんです⁉︎」
「美大のヌードモデルをしていたわ。それもあちこち掛け持ちでね。あなたはクラスの同級生の前でさえ全裸になる覚悟、ってお判りになる?」
祐華のもがきが眼に浮かんだ。
その像が滲んで見えた。
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