第29話 sanatorium
祐華は自身で立てなくなった。
盛夏の時期で、世間はお盆期間中だった。
その朝、彼女の部屋を叩くも返事がない。
朝食が、ダイニングで湯気を立てている。
この時期は多忙でもあったので、早く済ませて欲しかった。
ノックをすると室内で啜り泣きが聞こえてくる。そこは和室だったので襖の引き戸だった。
その畳にソファベッドを置き、その上に布団を敷いて彼女は寝ていた。今は上体を起こして、灰色のケア帽を握りしめている。そうして涙がとめどなく頬をつたっている。
「どうした?どこか痛いの?」
目尻を赤く腫らしている。
唇が、僅かに震えている。
どれほどの時間をそうやって無為にしていたのか。祐華は嗚咽のなかで何とか説明をしようと試み、その内容に絶望し、そしてまた涙に暮れるという手順を繰り返した。
「・・立てないのよ。足がいうことをきかないの」
覚悟はしていた。
彼女の主治医から聞いていた。
その時期が多少早まっただけで、覚悟は固まっていた。
「とりあえずトイレに行こう。朝食はもう出来ている。テーブルで一緒に摂ろう。ここにいても塞ぎこんでしまう。普段通りの生活をするべきだ」
「トイレか・・・やだな。そんなのも貴方に頼るようになるなんて」
それから虚空を掴むように丸く両腕を伸ばしてきた。
彼女の腰を支えて、そのぐにゃりとした頼りない感触に指先が凍った。
「だからこうなる前に抱いて欲しかったな」
重なった身体の、耳元でそっと囁いていた。
それは初夏の頃だったと記憶している。
店仕舞の準備に忙しく、祐華はスツールに掛けていた。
高校3年生で、受験生となった史華は勤務に入れてない。
しかも夏期講習という補習授業で、彼女は今夏は棒に振ってしまう。
息抜きに、客として先週に小一時間だけやってきて、カフェオレをかき混ぜながら、海だけは行きたいと愚痴を零していた。
「新しい水着を買ったんだ。店長も見たいでしょう」
「ああ、黒い極小のビキニならば、正義だ」
「ほんと、男ってやらしぃ、それって海岸のみんなに見せちゃうのよ。もったいないわ。ここって時に悩殺技は使わないと!」
そうやってふたりで談笑した、そのカウンターにその日は沈んだ顔の祐華がとまっている。
夕食に出した賄いはクロックマダムだが、食が進んではいない。それを遠くから見つめていて、珈琲を出すタイミングをはかっていた。
「あ、ごめんなさい。もう珈琲お願いね」
「どうかした、考え事してる?」
ため息をひとつついて、ベレー帽を直した。彼女の視線の向こうには、通勤で使っている軽自動車が置いてある。
「貴方、最近はバイクに乗っていないわよね。私と一緒に動いているから?私って負担になってないの?」
「それは問題ないよ。ほら最近は梅雨の終わりで、ゲリラ豪雨が多かったしね。流石にあのバイクでは肝が冷えるよ」
「休日は、たまにはツーリングに出掛けてみたら。あの子も放ったらかしじゃ、機嫌を損ねるわよ」
それは確かにそうだ。
定期的に暖気運転をして、エンジンの血流を流しているばかり。駆動系やブレーキ系統も放置はよろしくない。
「そうだなぁ、今度の店休日にはお言葉に甘えるよ」
「その言い方がちょっと、ね」と苛立ち混じりで語尾に噛みついてきた。
怒りの沸点が低くなっていた。
心が袋小路に陥っているのか。
「それが甘やかしなの。私は貴方のお客様じゃないの。貴方の時間を使い潰すのは止めにして欲しいの」
対等な立場でいたいのだな、と思った。
被保護者の扱いを受けたくないのだな。
「分かった。僕も自分の時間を取るようにするよ」
その言葉の返答にように、祐華はパンを大きめにナイフで切って、口に運んだ。その正面に、ことりと音を立てて珈琲を置いた。
数日経った。
その日は店休日にしていて、晴天でもあったので、愛車を峠に繰り出した。以前より攻め込むことはない、スローペースで流している。走りながら祐華の存在が、自分のライディングに出ていると思った。
その夜の事だ。
夕食の後、珍しく祐華は赤ワインを一杯だけ呑んでいた。
そして洗い物に立ったので先にバスを使った。
タオルで頭を拭きながらリビングに戻ってくると、彼女はちょっと上気した頬で、「久々だから回るわね」と言って微笑んだ。
彼女に、おやすみを言って自室のベッドに飛び込んで、すぐに睡魔の虜になった。
ぎしり、とベッドの軋む音で目が覚めた。
温かい体温と重さをシーツ越しに感じた。涼しい夜だったので、元々苦手なエアコンを切って緩くファンを回していた。空気がかき混ぜられて、甘い芳香が鼻先で遊んでいた。
「私ね、あげれるものがあるの」
それを僕は、沈黙で返してしまった。
「セカンド・ヴァージンよ。精神的なものじゃないの」
子宮筋腫の手術のときに膣を手術糸で縛るらしい。密着した柔肉が処女膜を再生してしまう、そのことをひどく冷静な口調で説明した。
「もう一度、ここからやり直しができるのよ」
僕は戸惑った。
一糸纏わぬ背中の、湿った肌に掌が這った。
それが抱きとめるのか、拒絶に向かうのか。
彼女は返事を恐れていたのか、僕の唇をキスで塞いだ。
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