第12話 文字盤
梅の花が綻び始めた。
畳まれた白い花弁が、その秘密を明かすように緩くなりつつある。
そうなると僕はガレージに向かい、冬眠させていた単気筒のバイクのカバーを取り払い、埃を拭っていく。細いトラスフレームの奥の補器類に、蜘蛛の巣まで張っている。
それからキャブの調整に入る。
しばらくは三寒四温で、チョークを使わないと始動はできないだろう。それでも春は緩慢ながら訪れてきている。
冬季の巣篭もりのためにバッテリーの端子を外してあったが、残量がどれだけあるか。軽量な車体なので苦でもないが、最初は押しがけすることもあるだろう。
扉の呼び鈴が鳴った。
僕はカウンターの内部で、フラスコなどの器具の煮沸消毒をしていた。
「おはよう」
祐華は朝日を背に受けて柔かに笑っていた。
「もう営業中?」
「ああ、看板を営業中に替えてなかっただけで、営業中には間違いない」
そう、と言って祐華は店内に入ってきて、カウンターのスツールに留まった。
「モーニングってやってるの」
「セットでよければ」
「じゃあ珈琲は水出しでお願いね」
「ウチの看板だからそれが定番だよ」
手早くパンケーキを二枚焼き、厚めのベーコンを炙り、セットのサラダを出す。それに水出し珈琲をミルクパンで温めて添えた。
「美味しいわね」と言ってパンケーキの一枚を皿から動かして、「こっちはシェアしてくれる。わたしには多すぎるわ」と言った。
もう一つの皿を出してそれを移すと、ナイフで半分にされたベーコンも追加された。それで自分用の珈琲も温めることにした。
「懐かしいわね。一枚のプレートを分け合うなんてね」
「ああ。以前は懐が寂しくてそうだった」
「そう。今は心が寂しくてそうするのよ」
寂しいのか、と胸の奥にその言葉を沈ませた。
祐華の家は鎌倉でも旧家として名が通っていた。明治から伝わる洋館に初めて入った時はたじろいだものだ。使用人もその中にはいて、僕の訪問を訝しげな眼線で迎えていた。
「実家には戻らないのか」
「居心地が悪いのよ。もうひとりの方が楽」
そんなものかもしれない。
そうでないかもしれない。
「春なのでまた乗り始めたのね」
店頭に置いたバイクのことを言い始めた。それから可愛くくしゃみをした。
「わたしもそろそろ花粉の季節だから憂鬱だわ」
そう独り言のように呟いた。在りし日の会話をなぞるようで、背を伸ばしてそれに耳を傾けた。
「ねえ」と祐華は真顔を向けた。
カウンターに腕時計が置かれた。見覚えがある。かつて贈ったものだ。
「もう止まってしまったの。あの頃のままよ、この時間は。もう一度この秒針を進めていくことはできないのかしら」
「自動巻きのはずだよ。振れば動き出すと思う」
「機械的な話をしているわけでないわ。それに機械的な話であれば、修理が必要だと思うわ」
言葉に詰まってしまった。急に店内が鎮まり、広大になったように感じた。そこに呼び鈴がなり、郵便物が届くまでその秒針のように時間が止まったようだった。
祐華が去った後も、そのスツールに体温が残っている気がした。
ランチタイムを終えて、看板を《準備中》に変えて軽食の下準備をしていた。
夕食用にカレーソースを作っておく。それにフライものを手作りして冷凍しておく。ピクルスも自家製で漬けている。
呼び鈴が鳴って、顔を上げた。
「手伝いに来たよ」と史華が顔を出した。
「ああ。良いところに来た」と声を出して、はっとした。
再会してから、祐華に対して感謝の言葉を出したことがない。かつての愛着の心が、別離以降は喪失していた。あの当時の、醜悪なその激情に固執していたのは僕の方ではなかったか。
「あれ、何かしら?」と怪訝な声がする。
これ、と言いかけて史華が翳してみせた。時計だった。カウンター内の僕の位置からは見えない、調度の裏に置いてあった。
「忘れ物かな」と言って手渡されたそれを受け取った。
冷たい感触、それは僕の心のように凍てついていた。
そして文字盤の隅にあるカレンダーに釘付けになる。
その二桁の数字には、格別の意味がある数字だった。
「ちょっと急用ができてしまった」と史華に告げて、店を閉めようとしたが彼女はかぶりを振った。
「17時までには戻れるの」と期限を切って「なら仕込みをしながらお留守番していてあげる。マスターのブレンドは作れないけど、珈琲は温めて出せるわ」
ちょっとそれは、と更に逡巡が湧いたが好意として受け取ることにした。
ヘルメットを被り、グラブを嵌めて、バイクに跨った。午前中に動かしていたので、難なくとセルが回って白煙をリズミカルに吐き出し始めた。
時計の秒針は動いていた。
時間も寸分なく合ってる。
日付だけが嘘をついてる。
祐華の誕生日を指していた。
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