第2話 タンデム
金属音を時々立てて、エンジンが冷えていく。
冬の朝もやが立ち込める路地に、その熱量が奪われていく。
単気筒のシンプルなエンジンは、戦後日本の日常の経済活動を支えてきた。その実用品がいつの間にか趣味性を高くしている。
後輪に濡れた紅葉が貼り付いていて、晩秋の残り香を感じた。
峠は霜が降りていて危険だったが、まだヒヤリとするだけで済む。単車の時節は続く。積雪が多くなる時期と豪雨の日だけ、軽自動車で店に入ることにしてる。狭い駐車場なので、極力は空きスペースを残しておきたい。
その朝はパンの仕込みのある日だったので、早めに店に入っていた。
水出し珈琲が売り物の喫茶店ではあるが、週末には手作りパンのサンドイッチのセットを出している。小銭で飲めるお手軽なカフェが林立している中で、食べていくには独自性を際立てていくしかない。
また時節柄、テイクアウトとして提供しやすい。
ウィークディでもお昼に注文を受けて作ることもある。
作るのはピザ用の石窯を利用して、バゲットが一番多い。
気まぐれにカンパーニュも作るし、生地にサラミやベーコンを練り込んだパンも焼く。お客が来るたびに目新しいものを置いていたい。
思いがけない時間に扉の鈴が鳴った。
僕は
「いらっしゃい」
「早いね、どしたん?」
「今日はパンの仕込みなんだよ」
「やった!また来るね」と彼女はそう言いながら、店内に入ってきた。それも紺色にスカーフのついた制服のままだ。
「
「今日は創立記念日だよ。お休みよ」と愛くるしい瞳で瞬いてみせた。
「今年は3回も記念日があるのか?」と苦笑で返した。
彼女は厨房とも言えないカウンターの裏に、勝手知ったるで予備のエプロンをかけながら回ってくる。
「生地を捏ねるんでしょ。任せてよ」
甘やかしてはダメだと思いつつ、店に独りでいるのも味気ない。それでついつい許していた。我ながら寂しがり屋が板についている。
それで彼女に似合いそうなアメリカンマグを選んだ。
水出し用の
そうこの緊張感は、峠では滑らないギリギリの軌跡を狙っているようだ。
中身をドリッパーに移して、café au laitを時間をかけて抽出する。奢りだけど、この一杯で彼女はあと数時間を粘れる。
「ありがとう、いい香りね」
この娘はこの数ヶ月で女を仕上げてきているな、と思った。
恋でもしているのかもしれない。縁遠い言葉になったものだと、その言葉を飲み込んだ。ミルクで薄めたい苦さだとも思った。
「・・わたしもバイクに乗りたいな」
「免許を取るといい。もうそんな年齢だろう」
「校則で無理よ。お嬢様学校だもの。校長が卒倒するわ」
「そうだな。首を長くして大人の階段を待つといい」
「後ろに乗せてよ」
「それは無理だ。僕のバイクは独り乗りだし、タンデムはしたくない」
「どうして」
「他人の人生を預かって走るのは、怖いんだよ。もう人生に後がない」
「だからひとりなんだ」
僕は左手の薬指のない
「昔ね、バイクで怪我して失った。速い奴だ。
「・・あ、その時は誰か後ろに乗せていたんだ」
少女が女になると鋭くなるのは事実のようだ。言葉を失うことで肯定してしまうことを選んだ。
「ねえ。ふたりの人生はもう考えないの」
「生憎と、リングを
そして欠損した指のせいで、就職には本当に困った。presenceが他人よりも一言多く要るからだ。
「寂しくはないの」
「店にいる間はね」
彼女はちゃんと揃った指で生地を捏ねている。肩に力が入ってる。
「失恋したの、わたし」
「誰もがその関門を通過して
「わたしなら隣で生地を捏ねてあげて、配達にも行ってあげるし、お店番もできるわ。看板娘にもなれるかもしれない」
「看板娘に払えるだけの充分な時給は出せないし、そもそも夜には酒も出す店で高校生は雇えない。条例よりも重い世間の目で縛られている」
「そう」と彼女は嘆息した。
「またひとつの関門をくぐったみたいね」
「そうだな。いつかバイクで伴走することはできるさ」
峠を走り抜けた年齢になって知ることもある。
タンデムに乗せられるほど、それは甘くもないし夢もない。
この娘の行く先を見守るくらいしか、ソロシートには積めない。
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