第5話 espresso

 エンジンを磨く。

 水冷エンジンでフィンはないが、エンジンを磨くメンテナンスは冬の愉しみでもある。

 それに僕のバイクにはトラスフレームがあり、その金属の質感は洗浄することで達成感すら満たしてくれる。

 そろそろエンジンオイルを追加しておこう。

 今時では希少な2サイクルエンジンのモデルで、もう30年前の個体だ。僕が園児の頃に、新車のプライスタグをつけ店頭で胸を張って並んでいた。

 エンジンを掛けるとアイドリングは軽い爆発が、単気筒の粒の揃った音を響かせてくれる。軽い音調だが高回転域にまで回すと、その鼓動こどうが塊になって金切り声の咆哮をあげ高出力を絞り出す。そう、まさに絞り出すといった手応えをボディに伝えてくる。

 今日はチェーンも洗浄しておこうかと工具箱を開けた。


 祐華は生徒会の副会長だった。 

 容姿端麗で成績優秀というのが、生徒会選挙の投票数を裏付けていた。学年はひとつ上で部活は美術部に所属していた。

 当時の僕は帰宅部で、ガソリンスタンドで働いていた。

 マフラーから漏れる排気の臭いすら好きだった。

 そして高校では禁じられていた原付バイクを、スタンドで隠し持っていた。バイト先の先輩に貰ったもので、名義変更さえもした覚えがない。そのバイト先はひよっこライダーの、世間体のいい隠れみのになっていて、実家にもそれは内緒にしていた。

 その副会長が僕の教室を訪ねて来た。

 彼女が入ってくると教室が少し動揺したし、その靴先が僕を向いたので、さらに緊迫した。

「ちょっと時間貰えるかな」と先輩風の圧を持った声で、生徒会室に呼ばれた。その時の憔悴を語る言葉は筆舌に尽くしがたい。

「バイクに乗っているでしょう」と問われ咄嗟に否定した。

「いいえ。そんなお金ありません。バイトして小遣いを作っているんですよ」

「そう、どこでバイトしてるの」

 バイト先のスタンドを告げると、あっさりと解放してくれた。

 彼女がカンバスの前で数種のパレットナイフで色彩を複層的に重ねている間、僕はエンジンの前で数種のスパナを手に指紋に油染みを階層的に重ねていた。

 そんな平穏な日々は、漫然と続くものだと思っていた。

 そのバイト先に不意に自転車でやってきた。

「給油されますか。レギュラーでよろしいでしょうか」の声に彼女は苦笑で返した。そして「何時に終わるの」と言った。

 バイト上がりの時間を告げると、女子にとってそれは遅い時間帯ではあったけど、「じゃあその時間にまた来るわね」と言って、祐華は自転車に跨って去った。スカートでよく乗れるものだと感心した。

 それはデートだったのだろうか。

 スタンドからそう遠くない場所に、蛮童という喫茶店があった。

 扉を開けると盛大に鈴がなり、経験値が少なくて心臓が鳴った。

 丸太材を積み上げ、ニスの刷毛はけの跡も露わな内装で、大航海時代の海賊船の船室を連想させた。

「お腹空いてるでしょ。おごるわ」と彼女がいうので、カレーを注文した。

 彼女が注文したのは、驚くほど小さなカップに入った珈琲だった。

 当時の僕にとって峠の自販機での缶コーヒーが存在の全てであり、カップに出てくるそれには角砂糖を3つほど落としてミルクも使った。

 彼女はそれに少しのミルクを零しただけで味わっている。

「キミはアニメとか漫画とか見るの?」という不馴れな高校生のデートで、話題に困った時にする典型的な質問をした。

「友達はそうですね、余り興味がない。バイクのカタログなら何時間でも見ていられます」

「そうなんだ、わたしの同級生はアニメキャラに恋したりしてるわ。あとアイドルとか。男子って好きでしょ、そんなの」

「先輩はどうなんです」と眼を魅入って聞き返した。

 言葉尻にあざける空気が含まれている。それが彼女の印象に合わない。

「わたしは見ないわ。同じね。あれは足りないのよ」

「足りないって何がです?」

「そうね、女の匂いね。そうわたしも絵を描いているけれど、絵にも匂いは出ないわ。でもそれがないと本物にならないと思うの」

「僕もオイルの焼ける臭いは好きです」

「ちょっと飲んでみる?」

 そう言ってその小さなカップを寄せてきた。間接キスになると、それだけで純朴な胸は高鳴ったが、その憧憬は一瞬でかき消された。ひと口を含んでせた。それまでの生涯でこれ程ガツンときた苦味は初めてだった。

 祐華はそれを見て、無遠慮にけらけらと笑った。

「驚いたでしょ、espressoというの。わたしもやっと慣れてきたわ。鼻呼吸を少し我慢したら苦味が抑えられるの。香りは楽しめないけど」

「ちょっと、酷く、ない、ですか」と身体を折って咳込む僕にハンカチを手渡してきた。

「それが本物の匂いというものなの」と彼女は静かに微笑した。

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