第6話 石膏像
峠にも純喫茶があった。
僕はその冬から峠の
その峠には近隣の別荘地があり、その管理棟だった建物だが不景気になって運営会社が変わったらしい。
豪華な調度の建物が格安で賃貸できたと、マスターは言った。
その純喫茶のマスターは老境の入り口を、何度も足踏みをしているような顔をしていた。深い
彼は粉の計量が慎重だった。銀色のカップで粉を
同じく水も軽量ピッチャーでメモリをきっちりと合わしていた。
その店で使っていた水は、山の湧水を毎朝ボトルに汲んできていた。決して水道水では珈琲を提供しなかった。このために週末で多くのライダーが訪れたときなどは、湧水が足りなくなって看板になることもあった。
「厨房に入ってみるかい」と彼に誘われて嬉しかった。
バーの客席側から眺めているだけの器材に触れることができるのだ。
こうして手ずから伝授して貰い、修行が始まった。
中型免許も取得した。
当時は初心者ライダーでもタンデムが可能だったので、タンデムのできる車種をふたりで探していた。だが任意保険制度を考慮すると125ccの原付二種に限られてしまう。
それに予算的にもタマ数的にも厳しいクラスだ。
「私が後ろに乗りたいんだから、半分は貯金から出すわ」と祐華は手厳しく意見も言う。
数年前から崩壊中の日本経済である。
その妥協の産物が、砲弾型のカウルをつけたホンダの銀色だった。これならば最高出力も充分に出ていたが、彼女には一蹴されてしまう。
「嫌よ。そんなの。お尻が痛くなりそう。これがいいわ。ソファみたいで」と祐華が指し示すのはホンダの角目のアメリカンだったが。
最も好みの対極にあるモデルだった。
「そうそう。面接試験の作品を仕上げてみたのよ」
不意に祐華が蛮童で、espressoを飲みながらいった。
「感想を聞かせて欲しいんだけど」
「残念ながら僕はそっちに素養なんて、ないと思うけど」
「何言ってるの。アートは興味のないひとを振り向かせるほどの吸引力がないと、これから先はないわ。それに今日は両親がいないんだぁ」
と宣うので下心を隠遁させて、ついていくことにした。
彼女は東京で、国立美術大学を志望していた。
その進路であれば、僕との接点は2年後の春にはなくなる。むしろ今こうして同じ時間を共有していること自体が、奇妙なのだ。
「どう思う」と手渡してきた。
たっぷりとした量感のありそうなものとして受け取ったが、それは拍子抜けするほどに軽いものだ。
白い石膏の塊が作業用の板に乗せられている。板の表面には削った後らしい石膏の屑が粉となって残っている。
問題はその形状なのだ。
明らかに乳房の形をしている。形の良い釣鐘のようなラインをしている。それは左側のものらしく裾野の形状でわかる。乳首が頭をもたげている。肌色もなく石膏そのものの肌なのに、薄く静脈まで透けてみれそうだ。毛穴さえあるように見える。
「綺麗だ、と思うけど」
「そう、ありがとう」
まさかと思う。これは祐華のものなのか。
「本物と見比べてみる?」と制服の上から左の乳房を支えてみせた。
「まさか」
「そうよ。私の」
そう思うとその板がぐんと重くなった。
「どう」と問われてみたが、ごくりと生唾を呑み込んだ。血が音を立てて全身を駆け巡っている。その石膏像と彼女の顔を何度も眼が追っているが、それを自制することもできない。
「いや・・・いい」
「臆病ね。でもそう言うと思った。というか、言ってくれると思っていたわ」
背中の汗が冷たくて、一歩退いた。
「どう。それが女の匂いのある創造物なの。そんな作品を私は作って行きたいの」
学科試験はセンター試験だけで、あとは推薦状と面接、それに作品を1点だと言う。確かにこの作品を持参して、面接を受けると言うのは度胸がある。教授の方こそどぎまぎして緊張してしまうだろう。
「・・触ってみない?」
「え」とその真偽を確かめるべく瞳を覗き込んだ。
「やだな、その像の方よ。本物はお預けに決まっているでしょ」
それでも大いに
「さああ。勇気を出して、男でしょ。興味あるでしょ」と何度も迫るので、ゆっくりと包むように上から掌をかぶせてみた。その隆起の形が掌の甲に浮き出てくるような気がした。
「はい、よく出来ました。感想を聞かせて貰える?」
「こっちも感想が必要なのか?」
「じゃあ、勃起した?」
「ああ」とこちらが消え入りそうな声で腰を屈めて答えた。その持ち主を前にして思春期の男子が、そういう状況にならない訳はない。
「感想は?」
「硬い」
「もっと感じてみたら。きっと冷たさがあるからよ。目を閉じて。そしたらもっと血流を感じるわ。それがアートの力なのよ」
尻に敷かれてんな、と自嘲した。
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