第9話 トリュフチョコ

 冬になり風は冷たくなった。

 僕の家から高校までは自転車で通っていた。バイト先のGSを横目に通過して、湾岸道路を必死に漕いで進んだ。そうして江ノ電の駅舎が同窓の制服が吐き出していくのを見ていた。

 自宅が路線に近かったら自転車では通わなかった。だが特に梅雨の時期や、氷雨の降るこの時期にはうらやましいと思った。

 校舎は緩い斜面に立っていて、教室の窓から掌を伸ばせば相模湾がすくえてしまいそうに、紺碧の海に近かった。野球部の強肩でもなくても、海にボールが届くだろう。

 実際に住宅街にある僕の家より、暖流の海風を浴びてその校舎は温かい。まだ高校ですら空調の設備が無かった時代のことだ。

 3学期の始まり早々にセンター試験があり、慌ただしく睦月を超えて如月となった校内は、中旬に入試休みの時期になる。中坊がこの高校を目掛けて押し寄せてくるので、自宅で期末試験の準備をするように担任が範囲のプリントを配った。

 勿論、その前向きな姿勢は僕にはなかった。それは祐華も同様で、その期間には二人のバイクを契約に向かう予定を入れていた。

「ねえお宝っていうバイク。ちゃんとあったの?」

「ああ。電話で確認したよ」

 大通りから住宅街に鍵状に入り組んだ路地に店舗はあった。

 倉庫と兼用の店舗のトタン壁にも錆が浮き、店頭に停められた軽トラには、カウルの割れたスクーターが乗せられていた。

 目当てのバイクは店の裏手に置いてあった。暫く買い手の付かないモデルで、賞味期限前を超えた破格のタグがついていた。

「・・これって今乗っているのと同じじゃないの」

「あれは2サイクルの原付ですよ。これも原付二種ですけど、ほらタンデムステップがあるでしょう。タンデムは大丈夫です」

 先輩から譲り受けたのは白い車体のトレールで、青い白煙を撒き散らしてそれなりに速かった。その原付で、男同士でタンデムして警官に職質を受けたことがある。そんな違反行為に、優等生である先輩を巻き込むわけにはいかない。

 同型機種の125ccモデルを探していたが、どれも僕のバイト代では追いつかない。その時に店主からある長期在庫の話を聞いた。

 水冷2ストのモデルと比較して空冷4ストのそれは、設計年度は古いがシート高の低さでタンデム向きだし、穏やかなエンジンの方がいいかとも思った。

「・・これってよく見たらちょっと小ぶりなのかな。ライトも丸目なのね」

 カスタムを受けたそれはイエロータンクで、シートも薄くカフェレーサー風になっている。ウィンカーも小径なものに交換してあった。

「そりゃ見た目はなぁ」と店主が割って入った。

 そうしてしばし蘊蓄うんちくを祐華に垂れたが、興味のなさそうな単語の羅列られつで、法事で読経を聞かされている心持ちだったろう。

 彼は知識は語れても空気は読めない。赤ら顔で、皺にもオイル汚れが詰まっていそうな彼にも、改善の余地はあるものだ。

 見かけは地味でも、ヤマハイタリアで開発されたそれは、削出しのハブを用いてる。リムもロードレースを熱心に活動してるメーカーが組んでいる。タンクも軽量化でポリタンだ。

 僕は尻ポケットからクタクタの封筒を取り出した。それにはバイトで貯めた資金が入っている。店主は好々爺の顔で、使い込まれた鍵を手渡した。


 帰り道は並んで自転車を押していた。

 まだ日は高くこれがデートだとしたら淡白に過ぎる。

 だが僕にはGSのシフト時間が迫っていたので足速に歩いていて、「ねえ、バイク代、半分持つってば」と祐華は口を尖らせていた。

「ではそれで自分のヘルメットとグラブを買って下さい。出来るだけフルフェイスのいい奴を。グラブはプロテクタの入った奴を。迷ったら相談してください」

「わかった。でももう一箇所付き合ってよ」と缶珈琲を渡した。

 僕のは微糖で、彼女のは最近発売されたデミタスだった。それで掌を温めながら江ノ電の踏切を渡り、線路とぎりぎりの直前に立つ御霊神社の鳥居を潜った。

「来年は受験だしね。ここは学業成就の神徳があるの」

 ふたりで参拝をしていると、境内に雲の隙間から日溜まりが差していた。隆々とした太い幹を持つ木の前に、彼女は僕を誘った。

「目を閉じていてくれる?」と祐華は僕の前に立ち、日差しをさえぎった。ポーチから何かを取り出す気配がする。薄目を開けるでもなく従順にそれに従った。

「今日を指定してきたから、デートだと思っていたのよ」

 成る程、と思った。それは小腹も立つだろう。

 湿っぽい荷重が掛かってきた。ふわりと額をくすぐるのは、異性の黒髪と気がついた。その瞬間に柔らかい濡れた感触が唇を覆った。何かの小動物のような塊が、ぬるりと唇を割って入ってきた。

 甘く濃厚な香りの爆発がある。

 僕は驚いて、身を引いた。

「Happy Valentine!」と彼女は微笑み、僕はその手作りトリュフを噛み締めた。

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