第8話 triangle

 冬枯れの季節になった。

 僕の住まいから店までは峠を越える必要がある。

 小排気量ながら白煙と騒音を撒き散らす、今時では非難の目を向けられる2サイクルエンジンだ。発進時はある程度の回転数を上げておかないと、低速トルクは実感できない。

  だが発進して2速に繋ぐときには、後輪は力強く大地を蹴立てている。悍馬かんばが竿立ちするような出力カーブは、カタログデータ通りであり、流石は2サイクルを作り続けたYAMAHAだと思う。

 しかし僕の愛車において、凍結路面でアクセルを開くという行為は、暴発する拳銃にも等しい。九つ命があるという猫でも、命のスペアは足りなくなる。

 そこで史華を送るには車を出すことになる。

 そもそもが愛車はシングルシートだ。

 そのために足は何の変哲もない、ドアがただ4枚あるだけのコンパクトな車だ。要求されるのは細身でバイクと並んで、ガレージに収まる性能しか求めていない。

 住まいを出て枯れ野の庭に、鈍い銀色の光沢を放つ愛車を見遣り、史華を案内するときに声を掛けられた。

「あら。お出掛け?お邪魔だったかな」

 こちらの顔が強張ったのを見破られただろうか。

「鍵を貸して頂戴」と祐華が買い物袋を持ち上げてみせた。

 極めて好感度の高い笑顔を向けられているが、それが錐のように刺さってくる。気を逸らそうと、ひょいと放った鍵を、空中で彼女はしなやかな動きで受け取った。

 翠色のワンピース、薄着なのは毛皮の仕立てが良いのだろう。緋色のコサージュを胸元に飾り、過ぎてしまったクリスマスでも演出しているのか。

「なに、家まで送るところだ」

「ならばちょっと待っててね。温かいものを準備しておくわ」  

「ああ、助かる」

「きっと好物よ。好みが変わってないならね。ボジョレーなんて若い味は、苦い後悔をするだけよ」

 皮肉られているのを、史華は直感したようだ。意味はわからなくとも、これだから女は怖い。僕の手に腕を絡ませてきた。「いきましょ」と言って、ちゃんと胸に触れるように。

 助手席に乗せて、運転席を開ける。

 室内は冷え切っていたが、空中を飛び交う火花で背筋が炙られている。

「あのひと、誰なの」

「別れた、婚約者だ」

「はぁん、タンデムできた先輩のひとってこと」

「ああ、察しがいいな」

「でも別れてなんていないじゃない」

「向こうが旦那と別れているんだ」

「そう。なら同点ってとこか、あのひと、馬鹿にしてるわ」

 交差点の幾つかで道案内を受けながら、車を住宅街に乗り入れた。店に長居した史華を何度か送っているので、途中からは見覚えがあった。

「ここだな」と停車すると目を閉じて、こちらに寄ってきたので額にキスした。史華は「ちぇ、友達からか」と言ったが、すぐに明るい声で言い直した。

「でも、もうお客さんの階段から一段登ったよね。そうそう、元旦の朝、9時に迎えに来てね。ここからだったら江ノ電の方が鎌倉大仏に近いし、車は混むから。約束だよ」

「わかったよ」

「最優先だからね」の言葉を背に、再び後ろめたい山手を目指して上がっていく。我が家の灯は、心情的には遠く見知らぬ彼方だ。


「あら。小一時間は振り回されてるって、思ったけど」

 拍子抜けするくらいに、祐華の笑顔は見知ったものだ。

「何言ってる。お店のただの馴染みだよ」

「そう?その革手袋の贈り主でしょ」

 勝ち誇るように玄関を開けて、迎え入れる。これも見慣れた光景に思えてしまうが、そのドアの内側にいる姿は初めて見た。

「よくここがわかったな」

「あんなバイクを置いていたら、表札よりも目立つわ。希少なモデルなんだってね。私は今、ジョガーだからここ辺りを走っているのよ」

「成る程、ご近所に住んでるってことか」

「言っとくけどこれは偶然だからね。貴方も判っているだろうけど、街のゴミゴミした喧騒に、酔っちゃうのよ。山の空気が吸える場所じゃないとね」

 祐華はおでんを仕込んでくれているようだ。

 出汁の匂いが支配しているが、僕のキッチンらしくない。それでも歳末には心底温まる料理は有難い。

「珈琲お願いね。まだお土産はあるから」

「おはぎか。ありがとう。この手の甘味は作れないからね」

 彼女の手作りだろう、透明パックにきちんと6個が整列している。

 酸味の少なく香りの高い中煎りの豆を選んで、それをベースにしてブレンドを考えて、ミルで挽きサイフォンを準備した。

 水は湧水を汲んできている。

 それをフラスコに注ぎ、アルコールランプで温めに入る。

 キッチンのシンクに史華と食べたケーキの皿が洗われないまま詰み重なっている。自然とそれを洗って乾燥機に置いた。

「ねえ」と背後から声を掛けられた。

「ずっと夫婦でいたみたいね」

 それが肯定した沈黙なのか、否定した黙殺なのか。

 言葉に窮した自分自身でも、それは解らなかった。

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