第十五話 天国と地獄

 あれから、男も、私も、もう殆ど何も言わなかった。高速のゲートを抜けた後で、右折、左折と指示をする以外は、沈黙が続く。相変わらずシャンソン歌手の歌声だけが漂っていて妙な静けさだったが、そこには不思議と不快感は存在しなかった。

 車はスルスルと道の上を滑るみたいに進んで、最寄りのコンビニの駐車場で静かに停まった。「ありがとうございました」と口にしたあたしがドアを開けると、男は「おう」と短く口にしてひらりと手を挙げた。ドアを閉める。車はすぐに進み始めて種々の車に飲まれていった。小さく古ぼけたシルバーの後ろ姿は、こうして見るとなんだか少しだけ可愛らしくもある。見送りながら、助手席に妻を乗せた男が丁寧な運転で彼女を運ぶ姿を想像してみた。そうしたらなんとなく、気持ちが温まった気がした。

 だが反対に、車外に曝け出された体はこの時期には薄着すぎて酷く冷えた。肩を抱いて、とりあえずコンビニに入る。入店のベルが陽気に流れて、暖気がふわりと体を包む。あたしは食料品や日用品をひとしきりカゴに詰め込んだ。その際にふとお金のことが頭をよぎったが、考えるのが面倒になって欲しいものを全部入れた。面倒になったというより、半分は自棄になっていただけだけし、多分あとで後悔するけどそのまま全部レジに出した。


「いらっしゃいませー」


 アニメ声の若い女の店員だった。以前はいなかったような気がする。


「レジ袋どうされますかー?」


 可愛いらしい声とは反対に表情は固くて、目線はずっと並んだ商品に向いていた。あたしは「お願いします」と口にした。


「お会計二千百八円です。お支払いは現金で?」


 商品を袋に詰めながら店員は言う。つけまつ毛が乗った瞼はまばたきの度に風を起こしそうだった。声も姿も作り物みたいだと思いながら、あたしは現金を取り出した。だが左手を袖の中に隠したまま支払いをするのは大変で、手間取って、苛立った。パンパンに詰め込まれた袋を受け取るのですら不便で、手袋も買えばよかったと思ったと早速後悔したし、山の中で左手を隠して生きる術も練習すればよかったと思った。


「ありがとうございましたー」


 鼻腔を抜けていく声で店員が言う。レジでもたつくあたしの左手を見ているような気がした。ドキリと妙に脈が跳ねる。あの山の中で浴びた嫌悪感丸出しの視線も嫌だったが、たくさんの視線が交差する市街地も嫌だ。地獄じゃない場所はどこにあるのか、どっどっと跳ねる脈があたしの不安を駆り立てた。

 あたしは不安を置き去りにするみたいに、早足で家を目指す。でもコンビニの自動ドアをくぐっても、何度角を曲がっても、不安は背中にぴたりと張り付いたみたいにあたしに付いてきた。アパートのエントランスに足を踏み入れた時、あたしはふうと息を吐いた。息の仕方を忘れていたのか、こひゅうと喉が鳴いて、咳き込んだ。


「あら、あなた一〇五号室の方?」


 一息ついて、久しぶりの郵便ポストを開けていたあたしの背中に声が届いた。多分びくりと、大袈裟に肩が跳ねた気がする。左手は幸い、袖の中だった。


「あ…えと、はい…」


 声をかけてきたのはこのアパートの大家の女で、箒を持って立っていた。アパートの契約は不動産屋を通じて行ったのだが、近所に住んでいる大家夫婦とは少し面識があった。以前建物の前で事故が起きたとき、目撃者と建物の持ち主として警察と話をしたのだ。大家夫婦の夫の方は気難しそうな男で、警察にグチグチと文句をつけていたのだが、妻の方はそれを申し訳なさそうに嗜めていたのが印象的だった。


「長期不在って連絡はもらってたけど、今日が戻りだったのね」


 大家の女はあの時の印象そのままに口を開いた。


「あのね、ポストからはみ出しちゃう様な郵便物はこっちで回収してたの。泥棒が来ちゃまずいと思って、勝手に触るのは悪いとも思ったんだけど、ごめんなさいね。必ず後で持っていくわ」


 あの時と同じで優しそうな口調と申し訳なさそうな顔をしていた。


「あ、ありがとうございます」

「回収したのははみ出してるやつだけで、ポストの鍵まで開けて回収はしていないの。だから小さいのはポストに残っているはずよ」

「わかりました」


 そう言うと、女は箒を抱えて自宅の方に戻って行った。あたしはダイヤルを回して鍵を解除するとポストを開ける。中にはショップからのハガキや光熱費の検針表などが雑多に詰め込まれていた。殆ど不在にしていたから光熱費の請求金額は安かったが、電気だけは割合高かった。あの日も普通に出社して、普通に帰宅する予定だったから、家電たちはあたしの帰りを健気に待って動き続けているのだろう。あたしは勿体なさにため息を吐きながら、久しぶりの部屋に戻った。

 ディンプルキーをガチャリともゴリゴリとも取れるような、なんとも言えない音とともに鍵穴に差し込んで扉を開ける。扉の先の空気はどうにも澱んでいるみたいだった。道路に面しているから普段は殆ど開けないけど、流石にこのままにしているのもどうかと思って窓を開ける。クローゼットから厚手のパーカーを取り出して羽織り直すと、コンビニ袋の中身を冷蔵庫に突っ込んだ。日用品も幾つか入っていたが、分別も面倒で袋のまま入れた。萎びて腐った野菜や、明らかに賞味期限の切れた豆腐が目についたが、それも後でいい。拾ったピアスは反対に、まだ出したままの机の上に丁寧においた。そのままベッドにダイブして、左手を掲げて、目を閉じたあたしの顔を見る。空気だけじゃなくて、布団すらもなんだか湿っている気がしたが、これまでも大して小まめに干してなどいなかったと思い出した。


「これから、どうしよ」


 敢えて、口にする。左手をぐるりとと動かして、狭い部屋の中を改めて見た。引っ越しは決めていたから、荷物はある程度段ボールに詰められ整理されている。その上を僅かに塵が覆っていた。


「どこに行こう」


 実家になど、戻らない。都会は絡まる視線が怖い。田舎は難しいとあの男が言った。


「もうしばらく、ここに居るのも悪くないかな」


 左手を通して自分を見ながら口を開くと、俯瞰できる気がする。よし、あたしはもうしばらくここに居よう、また荷解きをしなければ、と心の中で決断した。

 その時、ピンポン、ピンポンとインターフォンが鳴る。ピンポーンという伸びのある音じゃなくて、ピンポン、ピンポンと短く二度なるタイプのやつだ。正解のベルみたいだった。


「郵便物を持ってきたのだけど」


 カメラの向こうで大家の女がそう伝える。あたしは「ありがとうございます」とドアファン越しに返して扉を開けた。


「これ、殆どチラシみたいだけど、一応ね」

「わざわざすみません。ありがとうございます」

「いいのよ。うちのお家に泥棒が来てもいけないし」


 近所のお菓子屋の紙袋に、丁寧に並べて詰められた郵便物を大家は手渡した。チラリと見た限り、重要そうなものは少ないようだった。


「あ、それとね…」


 それを受け取って終わりだと思っていたあたしが部屋に戻ろうとした時、大家は少し口を開いて、言いづらそうに一度視線をあたしから外した。


「うちの人がね、その、どこから聞いてきたのかわからないのだけど…」


 声のトーンが僅かに下がる。


「貴方がね、その、ほら、病気じゃないかって言ってて…」


 あたしの気持ちが一気に沈んだ。


「あの、違ってたら申し訳ないのだけどね、主人がどうしても確認しろって、煩くって…こんなこと急に言われて、気分が悪いわよね…! でもごめんなさいね。その、主人が噂で、貴方がサードアイだって聞いたみたいで…」


 へらりと、あたしは笑顔を作った。多分すごく、下手くそな笑顔だ。


「大丈夫ですよ。それにあたし、そんなんじゃ、ないですから」


 それから下手くそな、嘘をついた。


「そ、そうよね…! ごめんなさいね、こんなこと言って」

「いえ、大丈夫です」


 嘘を重ねる。


「本当に申し訳ないわ。でも主人がすごく気にしてたの。こんな冴えないただのアパートなのに、風評被害だなんだって、煩くって。でも、よかったわ」


「気にしないでください。それに旦那さんに伝えてください。心配しなくても大丈夫ですよって」


 あたしはそこまで口にすると、もう扉をさっさと閉めてやろうとドアノブに掛けていた手に力を入れた。それから一言付け加える。


「あたし、もう引っ越すので。片付けも始めてて、不動産屋にも連絡を入れる予定でしたから。だから、大丈夫です」


 ここにはもう居られないと思った。荷解きをしなくてよかったと思った。それから、田舎じゃなくても駄目じゃんって思った。どこからと漏れたのか、どこからバレたのかは、どうだっていい。大事なのは、あたしがもうここには居られないということだけだ。


「あ、そうなの。それはいつ頃の予定なの?」


 明らかに、大家はほっとした顔をしていた。


「まだ決めてません。でも、できるだけ早く」


 あたしはそう言った。大家は「そう」とだけ言った。もう会話も終わりだ。あたしは「ありがとうございました」と付け加えて扉を閉める。そのまま部屋の中に傾れ込んで、さっき丁寧に置いたばかりピアスを握りしめるとベッドに頭からダイブした。


「ねぇ、地獄じゃない場所って、どこ?」


 握りしめたピアスに訊く。


──あるわけないじゃん。


 彼女の声が聞こえた気がした。

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