Ⅵ
第二十四話 終わりの始まり
鯉が優雅に泳いでいた。大きいものはあたしの腕程の長さがあり小さな鯉を押しのけるようにして進んでいる。色は大半が黒。その中を黄金色や二色、三色の鯉が彩っている。膝下程しかない広く浅い池の畔に、こうもたくさんの鯉が集まっているのは人が餌を与えるからだと圭子が楽しそうに口にしていた。
ほら見て、と池の畔に立った圭子が鯉に向かって右手を伸ばした。ばちゃばちゃと折り重なるようにして鯉が集まり、撥ねた水や躍動するうろこが陽光にキラキラと輝く。この子たち、人の手が餌をくれることを知ってるの、そう言って笑う圭子が右へ左へと歩いて見せると、圭子の足元を鯉の詳れが追従した。その様はまるで鯉使いで、それを三歩下がった場所から可哀想だと嗜める英彦は見えていないのに見守っているようだった。それから、そうね、次は本当に餌を上げないと、と笑う圭子はまるで少女のようでもあった。あたしはじっとそれを見ていた。太陽の光が妙に暖かくて、風はどこか穏やかだった。そうしてしばらく楽しんだ二人は、池の畔に建つログハウスのようなお店の中へと消えて行った。
圭子の話ではお店の中にはレストランとお土産や軽食の売店があり、そこにこの鯉の餌も売っているらしい。餌が無くても鯉が群がるのを楽しめるけどね、と笑う圭子は最後まで無邪気そのもので、少しだけ気になったあたしも池に向かって右手を伸ばした。するとどっと鯉が集結する。ゴボッと音を立てて餌もない場所を吸い込む鯉を見て少しの愉快さと罪悪感が心に浮かんで結局はすぐに手を引っ込めたけれど、それでも犇めく鯉の群れに、ゆらゆら、きらさら、光が揺れた。
この池には県指定の天然記念物の花が自生しているのだと、圭子がさっき自慢げに話していた。初夏には緑の葉が池を覆って黄色い花が浮かび、その間を縫うように鯉が彷使う。たくさんの人が訪れては池を眺め、餌をたらふく食った鯉が人に見向きもしなくなるのだと言う。あたしがそれを見ることはないけれど、きっと綺麗なんだろうなと、想像してみる。
たまご型の丸い葉はハサミで切られたみたいに切れ込みが一つ入っていて、それが一面に広がる姿はまるで池に浮かべた絨毯。黄色の花は控えめで小鳥のように可愛らしい。葉の隙間に覗く水は一層美しく光を反射し、ガラスや宝石を絨毯に散りばめた様な姿を描いて、その眩しさに目を細めずにはいられなくなる。そんな圭子の言葉を借りて想像した池は美しく、見てみたいと欲を生んだ。だけど今は咲いていない。だからあたしが見ることはない。
あたしは池に沿って歩き出す。五歩も歩けば鯉はついてこなくなった。あたしの手には目しかなくて、餌を持っていないことがバレたらしい。風に草木が揺れている。風は少し冷たかった。池の周りはキャンプ場でもあるらしくぽつりぽつりと点在するロッジが童話の世界に引き込まれたのかと思わせた。池の畔に掛けられた木の橋の上で足音を鳴らし、落ち葉を踏んでは冬を鳴らした。ぬかるみを避けて軽やかに飛ぶと着地の瞬間に空腹がぐうと小さく鳴いた。池の周囲を一周したら、お店で軽食を買ってどこかに行こう。美しい景色は十分に楽しめたし、こんな観光地のど真ん中みたいな場所じゃなくて、ただただ草木が茂る静かな山中で、あの老夫場の知らないどこかで、あたしは一人消えてしまおう。
夏は客足が絶えないと言われたここも、寒い季節は人がいない。あたしは最後に左手を出した。
「きれい…」
やっぱり何故か、左手で見る世界は綺麗だった。耳を澄ませてみても風の音や鳥の声以外は聞こえなくて、あたしは両目を閉じてみた。左手を前に掲げて、その視界で歩いていった。それから踊るみたいに手を動かしては、変わりゆく視界を楽しんだ。慣れてしまえばこの視界は随分と楽しい。
ビデオカメラを通して見るみたいに、足元から頭の上までくるりと見渡せる。もうすぐこの身を捨ててしまうのだと思ったら、鼻歌でも歌ってしまいそうなほどに足取りが軽い。もちろんこれから向かう全く知らない死後の世界に怖さもあるけど、それよりも怖いものがここにはあることを知っている。
ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。
あたしは生きていたら不愉快で、死んだら死んだで迷惑を掛ける。やっぱりきちんと全てを片付けてから誰にも見つからないように死ぬべさだった。ダムの底にでも沈んでしまうべきだった。それでもごめんなさい。あたしはもう今日にでも逝きたい。
あたしはそんなことを心で話して、軽やかに歩いた。左手の先の空が澄んでいて、池がキラキラと光って、緑の木々や茶色の枝が揺れている。ミュージカルの曲が終わった瞬間のように、すうっと動きを止めたあたしは左手を高く天に掲げて
「…さよなら」
と静かに、何かに別れを告げた。少しだけ、泣さたくなった。
けれどその涙は朱里ちゃんと、あたしを呼ぶ声に堰き止められて瞳を潤ます適度におわった。ひゅっと息が出来なくなった。
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