第二十二話 視覚と感覚
それからしばらく、二人で山々や空を見ていた。否、男には見えてなどいないのだが、まるで見えているかのように視線を周囲に向けていた。あたしはそれを追うように景色を辿る。ふと男が「今日はどんな雲やろうか」と呟いて、あたしは見たままに「白い雲がいくつかあります」と短く答えた。男が「そうか」とだけ口にするから、あたしは空を見つめて考える。短く、優しく、風が沈黙の合間を抜けた。
「…うんと、そうですね…ほんの少しのだけ絵具を付けた筆が、乾いた紙の上をさっと走ったような、そんなぼんやりとした雲が少しだけ空に広がってます」
じっくりと眺めながら雲の形を言葉でなぞった。なぜそうしたのは自分にもよくわからないけど、そう言いたくなってそう言った。雲は掠れた絵具の暖味さやちぎった綿菓子の欠片のみたいな朧げさを持って形づくられていて、子どものころ描いたようなもくもくとした輪郭はどこにもなかった。そういえば、雲ってこんな感じだったなあと、そう思う。
「そうかそうか。軽そうな雲が空に広がっとるのか」
男が言った。少し楽しそうだった。
「うん。すごく軽そうです。ふうと吹いたら、簡単に飛んで行ってしまいそうなくらい」
今度は見えたままの代わりに、感じたままに言葉を繋いだ。これまで雲が重いか軽いかなんて考えたこともなかったが、そういう目で見てみたら今の雲は確かに軽そうに見えたし、記憶にある夏の入道雲は重たそう思えるから不思議だった。
「ほう。吹いたら飛ばされるくらいってことは、ティッシュみたいなもんやろうか」
「あ、確かにティッシュみたいです。ちぎった真っ白なティッシュを、青の上に撤いた感じ」
「はは、面白い」
そう言った男はしばらく笑った後で「そげな空も綺麗かろうなあ」とぽつりと言った。あたしは「綺麗ですよ」と空を見つめながら同意した。
こんなにも丁寧に空を眺めるのは随分と久しぶりことだった。気が付けば天井の下にいることが多くなったし、外に出ても空に意識を向けることは殆どなかった。あの山の中にいた頃だってそうだ。「見る」ことばかりに必死になって、空の色や雲の形をなぞることなどしなかった。
たしか暑い季節の空は、青の中でもコバルトブルーと呼ばれるらしい。反対に、寒い季節の空はスカイブルーなのだと聞いたことがある。あたしは今、生まれてはじめてその色の違いを認識している。流れる雲を目で追っている。白を含んだ淡い青に、薄く伸ばした真綿のような白が美しいと思っている。
だけれど何故か、その空の青さはあたしを寂しい気持ちに塗り替えていく。
「今日の空は青いけど、どこか白に近い青にも見えます。爛々とした輝きが無くて夏とは違う。どこか淡々としてて、ツンとした感じ。でも太陽の光が柔らかいから優しい気もして、どうにも不思議な気分になります」
言ってあたしは、山で出会ったあの彼女に似ていると思った。だからかふと思い出す、彼女は今、どこで何をしているのか。だけど当たり前みたいに、あたしは彼女が元気であればいいとは思わなかった。こんな体の私達は、元気で健康であることが幸せではないと知っているから。
「淡い青に、ちぎったティッシュが浮かぶ空か…」
ぼんやりと考えこむあたしの言葉を男が繰り返した。普段は使わないような表現にあたしはどこか少し恥ずかしくなる。
「ツンとしとって優しか感じは、どこか美しい人のごともあるね」
だが続いたその言葉がまるで彼女のことを指しているようで、あたしは思わず「え?」と溢した。
「いやいや、空に対する言葉のはずが人に対する言葉に聞こえたけん。それで想像したら、そげな性格の人は美しかろうと思っただけ」
「確かに、そんな人は見た目も美しい人な気がします」
「ま、僕には人の見た目の美しさは何もわからんけどね」
そう言って笑う男の隣で、あたしは空に彼女の姿を重ねていた。彼女の顔が重なる空ならずっと見つめていられると思った。それから死ぬなら彼女みたいなこの空を見ながら死にたいと思った。そうなれば時間が無い。男との会話は心地が良いが、それはこの男の目が見えないからだ。あたしが変わったからでもなければ、世界が変わったからでもない。この居心地の良さに馴染んではいけないし、浸かっている暇もあたしにはない。
「しかし君も、面白か表現をするね。僕の嫁さんと話しをしよるみたいだ」
だがあたしの気持ちに反して男は次の話題を口にした。「そうなんですね」と答えるあたしは会話の終わりを模索している。
「僕の嫁さんはね、僕の目が見えんとに、アレが綺麗、コレが美しいって僕に言うとよ」
「へぇ」
「やけん、そう言われた時は僕も決まって、わからんとやから僕に言うなって返しよった」
「なるほど」
「でも全然やめてくれんで、今日の雲は踊っとるみたいだとか、怒りと悲しみを混ぜて煮詰めたみたいな夕焼け空だとか、空一つを綺麗って言うだけでいろんな言い方を僕にしてくる」
「読的な人ですね」
「それを何十年も聞いとったら、いつの間にか僕も景色を想像するのが好きになっとってね。君の言い方もなかなか詩的で聞くのが楽しかったよ」
男の言葉に心がどこかむず痒くなる。だけど頭が否定する。
「..ありがとうございます。奥さん、素敵な方ですね」
「だよなあ。僕みたいな人は相手にするとは面倒やろうに、もう人生の半分以上を一緒におってくれる。僕が僕を卑下すれば、見えんから見えるものもあるとか、私が色々見せてやるとか、そげん言って怒らすし。本当によか嫁さんよ」
確かに、見えないから見えるものもあるのかもしれない。あたしもこうして、見えるようになったからこそ見えてしまったものがたくさんあった。左手がジクジクと熱を持ち始めて、死へと向かう気持ちが強くなる。早く行ってしまわねばと、左手があたしを引くようだった。
「それで、どげんね?ちょっとは気持ちがまぎれたかね?」
「え?」
だが、男は思わぬ言葉であたしの足を引き留めた。
「僕には何も見えんけんわからんけど、なんか嫌なことがあったとじゃなかと?」
「…あ、いや。そんなことは…」
見えていないはずの男の目があたしを捉えた気がして、俯いて口ごもる。
「はは、ちがうならよかった。見えん分、人よりも敏感だと思っとったんだけど、俺も
俯くあたしの隣で、男は軽やかに笑った。
「そういや、君、ご飯は食べたとね? たぶんもう昼時を過ぎたと思うけど」
「…あ、えと、まだです」
結局、朝からドーナツしか食べていない。時計もスマホもないから正確な時間はわからなないが、たぶん十二時は過ぎている。近くにコンビニはあるのだろうか。
「食べるところも池のところまで行かんとなかよ。遠慮せんでよかけん、うちの車に乗っていかんね。ほら、車も来たみたいやし」
あたしが歩いてきた坂道を、白い軽自動車が登って来ている。まだそれなりに距離があったが、男は確信があるのか立ち上がる。その時にまたポトリとハンカチを落としてしまうから、あたしはまたそれをい上げた。
「ハンカチを捨ってくれて、こんな爺に付き合ってくれたお礼といっちゃなんやけど、もし疲れとるなら乗っていかんね」
柔らかなハンカチを受取った男は優し気に笑う。その脇に車が停車した。あたしは「お願いします」と小さく応える。この人が放つ空気が左手よりも強くあたしを引っ張って、もう逃げられないとそう思った。
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