第二十一話 見える人と見えない人
あたしは坂を登っていた。道路沿いには葉を落として殆ど枝だけになった木が並び、風に吹かれた落ち葉がアスファルトの上をかさかさと滑っている。
少し息が切れていた。緩やかな坂が続く道の先は急カーブで見えそうもないが、引き返そうとは思わなかった。呼吸をするたび、肺いっぱいに山特育の香りが広がっていく。土や枯れ葉の茶色を含んだ柔い香りは、あの施設のものと少し似ていた。
あたしは結局、運転手が勧めた場所に向かっていた。運転手はその場所のことを「バスを降りて少し歩くくらい」だと言っていたが、もう随分と長いこと歩いた気がする。車も走れる舗装道を歩くのはこの履き慣れないブーツでも問題なかったが、ゴールがわからないままただ黙々と登り続けるのは心が折れた。最後に綺麗なものでも見て死ねればいいなんて、欲をかいたのがまずかったのかもしれない。小さな後悔がぽつりと頭に浮かぶ。だけど戻る場所もないのだから、あたしはもう進むしかない。冷えた空気の中で火照った頼にくすぐったさを感じながら、あたしは小さな歩幅でゆっくりと歩き続けた。
しばらくすると、ようやく抜けた急カーブの先に少し開けた景色を見つけた。左右に並んでいた木々が遠くなり、どこか空が広くなる。山頂まで登ったわけではないから眼下に広大な景色が広がることはないけれど、向かいの山の緑の深さと冬の太陽の温かな眩しさに、あたしは思わず両目を細めた。すると、
「あの、すみません」
ふと先の方から声がした。老いた男が道沿いの段差に腰かけていた。
「すみません。このあたりに、僕のハンカチが落ちとると思うとですけど、捨ってもらえませんか?」
まだ僅かに先のほうにいる男があたしを呼んでいるとは思いもしなかったが、どうにもあたしを呼んでるらしい。周囲にはあたしの他に誰もいない。
「ハンカチ、ですか?」
できる限り人と関わりたくないのに、どうにも無碍にはできなくて周囲を見渡す。男が散歩でもしているうちに落としてしまったのだろうか。
「ええ、柔らかかタオル生地のハンカチです」
どのあたりで落としたのか、何色をしているのか、そういったことを教えてくれればいいのに、何一つ教えてはくれなかった。さらに自分は腰かけたままで、まったく探そうという素振りを見せない。
あたしは小さくため息をつきながら、男の近くまで足を進めた。それから「あの、何色の…」と口を開いた。その時、あたしは男の靴の隣に淡いブルーのハンカチを見つけた。綺麗に洗濯された、確かに柔らかそうなハンカチだった。
「このブルーのハンカチですか?」
捨い上げて、差し出す。
「ブルー?」
「はい。この青色のハンカチですか?」
色の名前を言い直す。だが差し出したハンカチを男は一向に受取ろうとしなかった。なんだか少し、妙な違和感が生まれる。
「すいませんけど、僕、色はちょっとよくわからなくて」
男は振り向き、顔をこちらに向けるとそう言った。だが、その視線とあたしの視線がぶつかることはなかった。それでも男はあたしの方をじっと見ている。
「あ…えっと…」
ぼんやりとした違和感が、徐々に形をなして正体を現す。あたしは思わず言葉を詰まらせた。
「どうもありがとう。助かりました。僕一人じゃ捨えないもんで」
しかし男はニコリと笑うと手のひらを上に向けた手をあたしに差し伸べた。その上にハンカチをそっと乗せると、男はようやくハンカチを受取った。それから質感を確認するように
ハンカチの上で指を僅かに滑らせる。
「あぁ、これだ、これ。ありがとうね」
「いえ、別に大したことは…」
「冬はどうも手がかじかんでいかんね。しかしこんな村に若い子が一人で珍しかね。観光?」
「まあ…そんなところです」
「ふうん。誰が連れがおると?」
「…一人です。ちょっと、綺麗な景色でも、見ようかなって…」
「そうかそうか。それで、ここまではどうやって来たとね?」
先ほどの運転手といい、このあたりは質問するのが好きな人間が多いのだろうか。関わるつもりなどないのに話しかけられるし、会話の終わらせてくれない。
「バスで来ました」
「そら大変やったやろう。ここら辺は、車が無いと大変かよ」
もう十分身に染みて理解したあたしは、すこし困ったように笑いながら「そうですね」答える。
「もしあれやったら、送ってやろうか? もうすぐ僕の嫁さんが来てくれるし」
「いえ…えと、大丈夫です」
会って間もない、名前すら知らない人間の車に乗るのは正直気乗りしないし、あたしのことを覚えて欲しくない。
「でも景色見るとなら、この上の池に行くとやろ? まだもうちょっと歩くよ」
「そんなに遠いんですか?」
「僕には何とも正確には答えられんけど、もう少しあると思う」
「そうなんですね…」
心のどこかで「少し歩くくらい」と答えたバスの運転手を恨めしく思った。
「田舎の人はちょっと遠くても平気で歩くけんね。でも都会の人には大変やったろ」
そんなあたしの心を知ってか男は笑った。
「あたし、そんなに都会から来たわけじゃないですよ」
「この村の外は、きっとどこも都会やろう。ここ以外の場所を僕は知らんけど」
男の笑顔につられてあたしも少し笑う。男の纏う空気は凪いだ海みたいで優しかった。もう会話をやめたいはずなのに、まだ話していたいという欲も生まれる。
「ここは何もなかけど、いいところよ。静かで、空気が澄んどって、風の音も鳥の声も良く響く。冬は特に、枯れ葉が地面を這う音やら踏みつぶした時の乾いた音、朝方の箱柱を砕く音が綺麗かよ」
「へえ」
男があたしの方から向かいの山の方へと顔を向けた。
「上の池も美しかけど、ほら、ここからの景色も案外よかやろう。ここは少しだけ開けとるけん」
それからそう呟く。あたしは少し驚いて「え?」と溢した。あたしの驚きを理解したらしい男は「はは」と小さく声を出して笑った。
「ほら、今日も空が青くて美しか」
「…確かに青くて、澄んでますね」
男は足元に落ちたハンカチを捨えず、その色も知らなかった。それに先ほどまでは気づかなかったが隣には白杖が置かれているし、顔を向けられても目が合うことはなかった。だからこそ、あたしはこの男が盲目なのだと思っていた。しかし、確かにここからの景色は美しくて空も青い。
「ほら、向かいの山の頂上がうねうねと線を描いて宙と空を分けとる。都会じゃあんまりなかろう?」
そう告げながら向いの山頂をなぞるように手を動かす様は、その両目で世界を捉えているようだった。
「なぁ、空ってどこから青くなるか知っとる?」
「…いいえ」
「はは、僕も知らん。でも地面から離れた場所は「宙」らしかよ。だからこの辺は全部「宙」とげな」
山頂をなぞっていた手が、今度は宙を無尽に翔ける。あたしも真似るみたいに、目線よりも少し高いところに手を伸ばしてみた。あたしの手が置かれたこのあたりは、全て「宙」と言うらしい。
「じゃあ、どこまで手を伸ばしたら「空」に行くんでしょうね」
「わからん。でもこっから見える山頂の緑色に接した青色は間違いなく「空」やろうね」
「確かに「空」ですね。でもあの山の上の木に登って、こうやって手を伸ばした先はきっと「宙」ですよ」
「そうやね。どうにも、空は不思議か」
男が首を逸らして上を向いた。あたしも空を見つめる。どこか空が近い感じがして、施設のある山から見た空を思い出した。
「まあ僕は、こうやって上を向いたって空は見えやせんけどね」
「…そうなんですね」
なんて答えようか迷ったけど、素直に答えた。
「さっきの話は殆ど僕の嫁さんがしてた話とよ。僕にわかるのは音と匂いだけやけん。それでもここがよか場所って、自信をもって君に言わしてもらおう」
「はい。確かに静かで、綺麗で、素敵な村です」
空の青を遮るみたいに両目の瞼を開じた。太陽の光が透けて、この世にある色の名前では表現し難い色が視界に広がった。空気の匂いも感じる音も、あの山の中にどこか似ている。
施設のことを思い出した。みんなの視線が身体中に刺あったあの日のことも遠い記憶として湧いて出てくる。それなのに視線の鋭さが未だに身体を刺激した。
「でも自然の静かさに包まれてると少しだけ、孤独で寂しくなる時があります」
「…まあ、僕にも少し、わかる気がする」
男は空に顔を向けたまま笑った。
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