第二話 青い空と黒い靄

 診察室を出たあたしは、待合室に戻ってソファーに腰掛ける。平日昼前の町医者の待合室はさほど混んではいなかった。カウンターでは二十代くらいの母親がお金を支払い、その足元に幼稚園児くらいの小さな女の子が立っている。女の子は片方の手で母親のスカートをぎゅっと握りしめ、反対の手でカエルのイラストが描かれたシールを大切そうに握っていた。女の子の長い睫毛には涙の跡が見えたが、受付のカウンターから「お大事にね」と看護師が顔を覗かせると「これ、貰ったの」とおずおずとシールを見せて、小さく笑っていた。母親は娘の頭を優しく撫でながら「帰ろうか」と出口に向かう。看護師は女の子に「バイバイ」と声をかけながら優しく手を振った。女の子もシールを持った手を小さく振る。あたしはそれを見ながら、正確には奇妙な目などついていないその三人の手を見ながら、自分の奇妙に変化してしまった左手をポケットの中でぎゅっと握った。

 親子が病院を出ると、待合室には置かれたテレビの音と、雑談するおばあさんの声だけが残った。テレビから流れるワイドショーの話題から自分の足腰の話まで、行ったり来たりと会話は途切れることを知らず、まるで喋り盛りの女子高生のようだった。その時


『ベテラン俳優が主演舞台を緊急降板。サードアイ発症との噂を番組が徹底取材。詳しくはCMの後で』


という煽り文句が聞こえた。今までは気にも留めなかった話題が、あたしの中で鮮明に流れる。


「あら、私結構この人好きだったのよ」

「男前だったのに。大変ねぇ」


寒くなってきて膝が痛いと言っていたおばあさんたちは、テレビにすぐさま反応するとまるで他人事のように言った。左手の力が無意識に強くなる。腹立たしいような、悲しいような、辛いような、なんとも言えない感情が腹の中で渦巻いた。


「三井さーん、三井朱理さーん」


 受付の看護師があたしを呼ぶ。テレビと二人の会話からあたしの意識がこちらに戻ってくる。だが黒くトグロを巻いた感情は腹の中から消え去ることなく居座り続けた。そのせいか妙に重たく感じる体を持ち上げて、あたしはのろのろとカウンターに向かった。


「四千五百円です」


 あたしを呼んだのは先程優しそうな笑顔で女の子に手を振っていった彼女だった。彼女はあたしがカウンターの前に立つと、明細とお金を入れるトレーをカウンターの上に差し出す。だが彼女の表情は先程とは打って変わって無表情だった。

 あたしは受付カウンターと自分の体で奇妙な左手を隠しながらお金を取り出すと、五千円札をトレーの上に置いた。五百円玉も財布に入っているような気がしたが、左手を隠しながら小銭を探すのは難しかった。


「五百円のお返しです。それからこちら、病院の紹介状です。大学病院の受付で渡してください」


 差し出したお札がカウンターの向こう側に消えて、トレーに置かれた五百円玉と無機質な封筒が返ってくる。看護師の彼女はやはり無表情だった。差し出されたそれを、あたしは右手で受け取って、転がる五百円玉を財布ではなくポケットにしまう。片手で財布を扱うのは酷く煩雑だった。

 出口に向かう時、おばあさんの名前が呼ばれて一人のおばあさんが診察室に向かう。通りがかりでちらりと覗いたテレビには、CM明けの複眼症についての話題が始まっていた。残されたおばあさんは一人になっても「怖いねぇ。大変ねぇ」と呟き続ける。何が怖くて、何が大変なのか、教えてくれよとあたしの中の黒いトグロが叫んでいた。奥の方から先程会計を担当した看護師たちの「やばいね」とこそこそ話す声が聞こえたような気がする。あたしは足早に出口へ逃げる。ここにいたら、あたしの外側まで黒に染まってしまう気がした。

 自動ドアの外には、あたしの中身とは真反対の空が広がっている。広くて深くて遠い、秋らしい青空だった。陽射しも柔らかく澄んでいる。しかし吹く風は冬を思わせる冷たさがあって、あたしは思わず背中を丸めた。陽射しと風に細めた目を走らせて、周囲に人がいないことを念入りに確認する。それから漸く手に持していた上着に袖を通して風を防いだ。

 自身の病気の症状や治療法は知らなくても、この病気が置かれた現状や世間での立ち位置くらい、あたしも人並みには把握している。だから上着をしっかりと着込み、もう一度左手をポケットに入れてから歩き出した。足を進めながら吸い込んだ空気は秋の匂いがした。秋の空気が好きだった。暑くもなく、ひどく寒いわけでもない。特に今日みたいな澄んだ青空の日が好きだった。

 澄んだ青空の下で、秋独特の空気の匂いを肺に取り込みながら歩くと、もやもやとしていた腹の中に、次第に晴れ間が覗いてくる。

 あたしは歩いた。五分も歩けば家に帰り着くはずだが、ただ当てもなくフラフラと歩いた。なんとなく、このまま狭い部屋の中には戻りたくなかった。

 不意に秋の風が街路樹を揺らした。道路に落ちていた真っ白なビニール袋がふわりと舞い、一緒に運ばれてきたバターの甘い香りにあたしの胃がきゅんと反応する。そういえば、朝から何も食べていない。

『どんなに悲しくても、つらくても、腹は減る』

使い古されたセリフを思い出した。それにあたしは「確かに」と同意した。

 あたしはくるりとあたりを見渡して、小さなパン屋をみつけるとその店の扉を開ける。ふわりと身体中がバターの香りに包まれた。扉についた鈴のカランコロンという乾いた音に合わせて、胃と心が再びきゅんと踊る。


「いらっしゃいませ」


 長い栗色の髪をふわりとカールさせて、頭の高い位置できゅっと結んだ女の子が言った。狭い店内で、パンが綺麗に整列している。


「塩バターロール、焼き立てですよ」


彼女が付け足した。焼き立てだと言われたそれはレジから一番近い棚の上でちょこんと整列して、誰かが連れて行くのを静かに待っている。塩の結晶がついているのか、黄金色のバターロールの表面は『私を食べて』と言わんばかりにきらきらと光っていた。

 そのバターロールの輝きに吸い込まれそうになった時、あたしははっとした。扉の隣で、清潔そうなトレーとトングが積まれているのだ。あたしの奇妙な左手がポケットの中で居心地悪そうに疼く。

 あたしは壁際に置かれた冷蔵ボックスからサンドイッチを掴んでレジに置いた。


「ご一緒にコーヒーはいかがですか」


 すかさず彼女は口にする。そのまま慣れた手つきでレジを打つと、一緒に栗色の髪がゆらゆらと揺れる。あたしは小さく首を振った。


「三百三十円です」


彼女の笑顔は、昔実家で飼っていた犬に似ている。あたしは右のポケットに先程入れ込んだ五百円玉を差し出した。


「五百円お預かりいたします。百七十円のお返しです」


あたしが右手を差し出すと、その上にそっと小銭とレシートを置いてくれた。その姿はやっぱりうちの犬に似ていた。


「ありがとうございました」


彼女がまた笑った。

 

 あたしは近くの公園のベンチに腰を下ろした。家からさほど離れてはいないが、来たのは初めてだった。大きくはないが、綺麗に整備されている。

 向こうの方で、よろよろと危なっかしい足取りで歩く男の子と、その様子を必死に携帯電話で撮影する女性がいるくらいで、人はほとんどいなかった。そのせいか、時折男の子が発する動物のような声だけがやたらと大きく響いている。

 あたしは辺りをしっかりと確認してから、左手をポケットの中から抜き取ってサンドイッチの包装を丁寧に剥いだ。ポケットの中で温まっていた左手が、秋の風に撫でられて心地よく冷える。

 外で食べるサンドイッチはおいしかった。焼きたての塩バターロールは確かに魅力的だったが、甘辛いソースを纏ったコロッケサンドも悪くない。しかし、やはり飲み物が欲しい。食パンもねっとりとしたジャガイモコロッケも、容赦なく口内の水分を奪う。食べれば食べるほど、飲み込むことが難しくなり、全部食べたらコンビニへ行こうと心に決めて咀嚼を続ける。

 犬のような笑顔を向けられ、秋の空気と美味しい物を体に詰めて、あたしの気持ちはずいぶん晴れてきた。


「うわ・・・」

「私あれ、初めて見たわ。怖っ」

「俺も初めて見た。ちょっと無理だわ」


 ひそひそと話す男女の声が秋の風に乗って耳に届く。最初はあたしに向けられたものだなんて露程も思わなかったが、声に釣られて視線を向けた先の二人は、遠巻きにこちらを見ていた。あたしは息を呑んだ。それから慌てて左手の甲を太ももに押し当てて隠す。手の中で先程のサンドイッチの包装紙がくしゃりと鳴った。

 制服を着た若い男女だった。学校はどうしたのだろうか、とか思うところはいくつかあったが、とにかく通り過ぎるのを待つしかない。晴れかけていた腹の中の黒がまたモヤモヤと濃くなっていく。まるで女心と秋の空だ。

 そんなあたしを他所に、本物の秋の空はあいもわらず澄みきっている。白い絵の具をうっすらとのばしたような、気持ちばかりの白い雲が風に運ばれていった。

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