第三話 会社と社会

 男女はそのままひそひそと話ながら歩き去った。砂漠のように乾いた喉を潤すために行こうと思ったコンビニへは、正直向かう気分になれなくて、仕方なく公園の公衆トイレ横に設置された自動販売機でお茶を買う。

 普段なかなか見かけない商品を並べたそれは、真っ白な体に緑色の苔をところどころにつけていた。目と鼻の先にコンビニが見えるせいか、整備された公園の中でこの自動販売機だけがひどく寂れて見える。

 それでも自動販売機は『あったか〜い』『つめた〜い』と札を連ねていた。寂れた姿に追いやられてもなおポップな字面を並べるその様は、自動販売機が自動販売機としての矜持を貫いているようで、不思議な好感が持てた。

 あたしがポケットから取り出した小銭を自動販売機に入れると、呼応するように色とりどりのボタンが煌めいた。『あったか〜い』と間延びした文字の書かれたお茶のボタンを押せば、ガコンと大きな音をたてお茶が落ちる。


『ほら、私はまだまだ便利な自動販売機でしょ』


そう言っているようにも聞こえた。じゃあ、私が私であるためにはどうすればいいですか、と試しにあたしは心の中で聞いてみる。自動販売機はピピピと軽快な音をたてて〈7778〉という数字を見せた。それ以外に返答はない。自分で考えろと言うことか。

 自動販売機の開口部に手を突っ込んでお茶を取り出すと、確かに『あったか〜い』という感覚が得られた。キャップを捻ればパキッと軽快な音をたてて開く。中身を口に流し込めば、あたたかな液体が乾いた食道を押し広げながら流れてゆく。ボトルの中身を全て飲み干せば、喉の渇きの代わりにほかほかとした温かかさが残った。

 空になったペットボトルを自動販売機の隣に置かれたゴミ箱に捨てようとした時、ゴミ箱の隣に積み重ねられたゴミが目につく。大手ハンバーガーチェーンの紙袋などペットボトルや缶以外のゴミが乱雑に置かれたその一角で、ごちゃごちゃと文字が並んだ雑誌のページが風に揺れている。


『人気のセクシー美人女優O 長期休業の理由は華やかな男性関係?それともサードアイ!?』


『誰と誰が熱愛』だとか『あの人が不倫』だとか下世話な文字が並ぶ中、一際大きな文字で表紙に書かれていた。


 ⁂


 そもそも『複眼症』とは、身体のどこかに『目』が形成される病気だ。症例が少ないこの病気は、少し前まで日本ではほとんど知られていなかった。

 しかし二年前、ある人気若手俳優が複眼症を患ったことで一気に世間に認知された。右のふくらはぎあたりに目ができた彼は、モデルとしての契約を解除され、人気ドラマからの降板を余儀なくされた。そして彼は

〈僕は病気によって少し見た目が変わってしまっただけです。僕という人間は少しも変わっていません。僕の存在が、同じ病気で苦しむ人の助けになればと思います。必ず、また戻ってきます〉

とSNSに足の写真と自らの思いを綴ったメッセージを投稿した。

〈ヤバ!普通に見た目怖いんだけど〉

〈体調は大丈夫ですか?いつまでも待ってます〉

〈いや、マジでバケモノじゃん…〉

〈流石に全部降板、契約解除は可哀想…〉

〈仕事ほぼ降板とか、病気だけが理由じゃない気もするよね〉

〈大変な時にさらに病気なんて…戻ってきてくれると信じてます!〉

さまざまなコメントが溢れた。時間が経てば経つほど、コメントは増え荒れていく。

 彼は発症の三ヶ月程前にアイドルとの密会が報道されていた。恐らく悪意を込めてコメントする人の中には、それ対する妬みや嫉みを持つ人、それに乗っかって面白がっているだけの人もいたのだろう。

 もちろん投稿されたメッセージはその後すぐに削除されたのだが、それは静かな水面と同じで投じた石が見えなくなっても波紋は広がり続けた。

 気がつけば俳優本人に向けられていた悪意あるコメントや擁護のコメントも、お互いがお互いを攻撃するだけのものへと変化してき、一日もしないうちにSNS上は誹謗中傷の渦となっていた。

 そしてここまで大きくなった話題はテレビや雑誌が放っておかず、連日特集が組まれては新たな波紋が生まれては広がることを繰り返した。


 そして結局、その俳優は自ら命を絶った。


 ⁂


 渦中の人がいなくなった現在も、この病気のへ風当たりは強い。あの時批判的なコメントをしなかった人も、差別的な思考は駄目だと思っている人も、この奇妙な姿を目の当たりにしたら避けてしまうのが人の本能だ。さらにこの病気はうつるだとか、手足にサードアイがある人が覗きをしていただとか、携帯電話を盗み見られただとか、ネット上には誤情報が蔓延り、それに踊らされて患者を排除しようとする者もいる。

 あたしもこうしたこの病気の置かれた現状は知っていた。知ってはいたが、まさか自分がそうなるとは思ってもいなかった。きっと世の中の殆どの人がそうだろう。知ってはいても、常に自分とは無関係だと思っている。

 あたしはふと、昨日まで生きてきたこの世界がとてつもなく恐ろしいものに見えてきた。どろりと黒い何かが足元から絡み付いて、嫌な感覚に纏わりつかれて包まれる。それはたちまち背中に言い表せない不安を感じさせて、ゾクリと鳥肌が立つ。そして医者の言葉を思い出した。


「この病気は、進行しても命に関わるものではありません。ですが病状が進み、目として完成すればするほど命を落とす人は多くなります。ですから、何かあったらこういった場所も遠慮なく頼ってください」


名刺サイズの薄い桃色のカードと共に与えられた言葉。カードには『自殺防止のホットライン』と書かれていた。

 そう、この病気の患者で最も多い死因は、自殺だ。体を殺さないくせに、心を殺す病。いや、心を殺すのは、いつだって他人事で無関心のあたしたちみたいな人間かもしれない。

 秋の冷たい風が吹き抜けて、下世話な文字で溢れた表紙がぱらりと浮いた。大小さまざまな文字が所狭しと並ぶそれは、一見するとどうも浮かぶには重たそうだった。でも並んだ言葉はどれもこれも軽薄で、よくよく見れば風に舞う姿は奇妙なほどに馴染んでいる。ああ、あたしもこうなるんだと思った瞬間、背筋が冷たく震えた。

 その時だった。あたしの鞄の中で携帯電話が小さく三回震えた。メッセージを受信したらしい。

〈朱理おつかれー。体調は大丈夫?明日来れそう?〉

画面に浮かんだメッセージは優奈からだった。

 調、元気だ。なのになぜ心配されているのかと思ったが、そういえば今朝、体調を崩したから休むと上司に電話をしたのを思い出した。

〈うん、なんとかね〉

とりあえず、適当に返信する。

〈ならよかったよ。明日は来る?〉

あたしが返したかと思うと、またすぐに携帯電話が震えた。

 彼女が叩くキーボード音はマシンガンに似ている。彼女の指先は真っ白な画面を瞬く間に文字で埋める。それは携帯電話でも同じなようで、まるで会話するかのごとく画面の中を文字が流れた。

〈んー。明日も休むかも〉

〈そっか。ゆっくり休みなよ〉

 遅れて布団にくるまったうさぎのイラストがぽこんと送られた。

 あたしと優奈は同期で入社し同じ人事部に配属された。前はもう少し同期がいたはずだが、一人、また一人と居なくなって気がつけば二人だけになった。そんな二人はただ会社で話をして、お昼にランチをして、退勤と同時に離れるだけの関係で、仲はいいけど互いの体調を心配するほどではない。

〈ところでさ、朱理がいまやってる給与形態の報告書ってどこにある?報告日程が変わったらしくて、上が早めに状況を確認したいって言ってるんだけど…〉

長めな業務連絡が、うさぎを受信してからものの数秒で到着する。

〈ごめん、それあたしのパソコンのデスクトップだ…〉

あたしの頭の中にノートパソコンのデスクトップが浮かぶ。パソコンは自宅の鞄の中だ。

〈パソコン家?送ってもらえないかな?〉

〈いいよ。ただ今病院に行ってて、もう少し後でもいい?〉

〈うん、大丈夫。よろしくね〉

 やっぱり彼女にとって、あてしはただの同僚なんだ。でもこの何気ない、味気ないやり取りの間だけ、あたしは普通の人に戻ったような気がした。それでもやり取りが終われば、奇妙な左手が疼いた。喉の奥に何かが引っかかったような気がして鈍い熱を帯びる。

 あたしは小さい頃に行った、マヨネーズ工場を思い出した。並んだ卵が順に殻を剥かれて姿を変えていく、あの光景が未だ鮮明に頭の中に流れる。あたしはあんな人生を送りたかった。生まれて、大人になって、結婚して、子どもを産んで、年老いて、死ぬ。ただみんなと同じように、飛び抜けて幸せにも不幸にもならず、たまに誰かを羨みながら生きていく、そんな人生を生きたかった。

 昨日まではあの流れの中にいたはずなのに、人はいとも簡単に外側へ放り出される。あたしは今、ただひたすらに流れる卵を見つめていた、あの時と同じ場所に立っている。

 五年間勤めた会社も、公園で遊ぶ子どもも、それを見つめる母親も、あたしにとってはどこか遠い。あたしは喉の奥に引っかかった何かを押し上げ、吐き出し、叫び出したい衝動にかられた。それを普通だった頃の自分の理性が抑え込む。

 あたしは左手を見つめる。ぼうっと開いた目はまだそこにある。強く握った左手を左の太ももに振り下ろすと、ぼすんと鈍い音がして、痛みと熱だけがじんわりと広がって残った。



 家に帰るとすぐにパソコンを開いて優奈にメールを送った。ついでにいくつかメールを開いて、緊急の要件がないことだけを確認する。タイピングするたびに左手の目が視界に入って嫌になった。

 会社的には休みの日にパソコンを開くことを良しとはしていない。良しとはしていないが、同じ部署のほとんどの人がやっている。

 あたしが入社してすぐに与えられたのは、大きくて重たいノートパソコンだった。機密もあるので持ち出しも厳重に管理されていたが、それも数年すれば小さくて軽いものに変化し、機密教育を受ければどこでも好きな場所で仕事ができるようになった。

 メイクもせず、楽な格好での在宅ワークは心地が良かったが、一ヶ月もすれば気がつく。「どこでも仕事ができる」ということは「どこにでも仕事がついてくる」ということだ。家にいても休日でも、パソコンがそこにある限りあたしの視界に仕事がチラついた。

 少し前まではそれがどうも窮屈だったが、今は少しだけありがたい。仕事を考えている間だけは、昨日の自分と同じでいられるような気がした。

 しかし優奈にメールを送ってパソコンを閉じれば、嫌な感情が身体中に重くのしかかる。ベットに横になって、なんとか目を閉じて、眠ろうとする。あたしは『目が覚めたらこの左手が元に戻っていますように』と強く願った。

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