第四話 黒色と無色

 カチカチとなる時計の音で目が覚めた。最後に時計を確認してから、二十分ほどしか経っていなかった。午後二時前。予定のない休日、ましてや有給休暇は時間が有り余って仕方がない。


「はぁ…」


溜息が出る。電気は点けていないのに、遮光カーテンを突き抜ける光が部屋中を埋めていた。寝転んだ顔の前に左手を掲げれば、あたしの目と目が合う。


「やっぱ、夢じゃ、ないんだよね…」


 今朝見たあの奇妙な夢は、こうなることを予測していたのかもしれない、そんな気がした。きっとこの目が完成すれば、あたしはあたしの顔を覗くことができる。その時、あたしはどんな顔をしているだろうか、人はどんな顔であたしを見るのだろうか。

 右手で顔を覆って視界を隠した。持ち上げていた左手をベッドに向かって下ろした。ボスンと鈍い音がした。これからどうすればいいのか、考えなければならないのに頭が回らない。目を逸らしたってどうにもならないことはわかっているけど、現実を見つめたくない。また、溜息が出た。


「とりあえず、これからどうしよ…」


 このまま一生ずるずると仕事を休み、部屋に籠り続けることはできない。でも、さっき向けられた視線を思い出すと嫌になる。あれをもう一度向けられるのは、正直怖い。昨日までは、いや、今だって、あたしはまだ会社の一部である筈だ。だけどあたしのこのサードアイが知れ渡れば、あたしはきっと会社の一部から弾き出される。クビになることは無いだろうけど、辞めてしまいたくはなるだろう。


「…うっ、ふっ…う…っ」


 なぜだか大量の涙が出てきた。怖いのか、悲しいのか、はたまた怒っているのか、苛立っているのか、なんでなのかはわからないけど、涙が出た。手で涙を拭おうとしたら左手を目を視界に捉えて余計に止まらなくなる。右手で左手の甲を打てば鈍い痛みが走った。その痛みがあたしに現実を突きつける。この奇妙な左手はどうしたってあたしの一部で居続けるんだと、そう思わせた。


「…なんで、あたし、なの…」


 なんであたしがこんな目に遭うんだろう。なんであたしなんだろう。何がいけなかったんだろう。なんでもっと早く病院に行かなかったんだろう。いろんな感情が涙腺を刺激して、止まらない。目や口を通して、あたしの感情が溢れ出す。

 それからあたしは随分と長い間、泣いていた。涙を流して、疲れたらぼうっとして、現実を思い出しては涙して、泣き疲れたらぼうっとして、それを繰り返していたら、いつのまにか部屋に差す陽の光は傾いていた。酷く疲れたせいか、腹の中に渦巻いていた黒いものは幾らか和らいだ気がした。腫れた瞼は重たかったが、思考は僅かに晴れている。少し冷静になった頭が数時間前の医者の話を振り返り、自分の置かれた状況を理解し始めた。


「仕事、辞めちゃおうかな…」


 薄暗い部屋の床に腰掛けて、左手の甲に向かって言ってみる。半開きの目はやっぱり仏像のそれみたいだった。多少冷静な気持ちで見ても、奇妙なものは奇妙でしかない。だがこれも、今やあたしの一部なのだ。

 医者の話によれば、目としての機能が完成すると瞼がまばたきをするようになり、瞳が視力を得るらしい。あたしの半開きのままの目も、あと数日から数ヶ月で完成する。そして目が完成した時、あたしは恐らく専用施設に入所する。施設に入ってこの目を扱う技術を学ぶのだ。

 新たな目も普通の目と同様にまばたきを無意識にできるらしい。だが多くの患者は、慣れるまで瞼を自らの意思で閉じられない。もしもこの瞼を閉じる技術がなければ、風呂に入ったり、あたしの場合は手を洗うことが難しくなるし、視界が増えれば眩暈や酔ったような吐き気に襲われることが起きるらしい。

 できるようになるまで、数日から数ヶ月。あたしが出来るようになるまで、どのくらいかかるかは誰にも分からない。長期間の休暇を得るには会社への説明が必要になる。そうしたらきっと、あたしは会社に居場所を失う。もし上手く説明を逃れて休めたとしても、左手の手の甲なんて目立つ場所にできたこれをずっと隠し続けるのは難しい。だからどうしたってあたしは、会社や社会から居場所を失うしかないのだ。

 あたしはノロノロと立ち上がって、顔を洗うために洗面台に向かった。気持ちを切り替えたかった。蛇口を捻って綺麗な右手と奇妙な左手に冷たい水をかける。それを掬って、ばしゃばしゃと顔に掛けた。


「仕事、辞める」


 それかはあたしは鏡に映った自分に言った。顔は瞼が真っ赤に腫れて、みっともなかった。あまりにも酷い顔をしていて、少しだけ笑いが漏れる。思わず、よかった、あたしはまだ笑える。そう思った。

 全部、全部辞めよう、そう決めた。

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