II

第五話 後輩と同僚

 背の低いビルとビルの隙間は黒い影が濃くて、覗く空は驚くほど青かった。その空に向かってふうっと息を吐き出せば、息に混ざった煙の白が澄んだ空に重なっていく。

 あたしは時折、タバコを吸った。本当に、ごく稀に。でもいつだって、吸い込む煙を美味しいとは思わなかった。ただ煙が肺を満たす瞬間に、心に開いた隙間が埋まる気がするから辞められない。

 今日は二日ぶりの出社だった。昨日は瞼の腫れが引かず、あまりにも酷い顔だったから仕事を休んだ。丸一日部屋に篭って自分の病のことを調べていたら、酷い記事も幾つか見つけて体中に見えない細い針を刺された気分になった。


「不味い…」


 また煙を吸い込んで、吐き出す。白い煙を吐き出しながら、あたしはあたしの体を黒く汚していく。でも汚れるたびに、あたしの濁った心がすうっと落ち着いた。

 いつもは左手で扱う煙草も、今日は右手で扱う。左手は穿き慣れたテーパードパンツのポケットの中だった。


「あれ、先客だ」


 空に消えていく白い煙を追っていたら、ふいに声が飛んできたから驚く。


「ああ、原か。おつかれ」

「三井さんがここにいるの、珍しいっすね。サボりっすか?」


 三つ歳下の後輩がニコニコと爽やかな笑顔を向けながら私の隣に立った。それから慣れた手つきで煙草を咥える。原はあたしと同じ人事部の所属だが、雰囲気はどこか営業部の人間に近かった。柔らかくてとっつき易い、でもどこか裏がありそうな、そんな人。


「休憩だよ。原こそ、サボり?」

「違いますよお。部長の機嫌が悪かったから、ちょっと出てきただけっすよ」

「はは、サボりじゃん」


 また煙を吸いこんだ。少し乾いた笑いを零したら、その音を具現化したみたいに白い煙が口から漏れた。

 

「まあ、サボりと言われれば、サボりっすね」


 原も笑った。それから右手に握ったライターで火をつけると、左手の中指と薬指の間に煙草を挟んで口から離す。ふぅと長めに息を吐くと、魔法みたいに白い煙がすうっと伸びた後に四散して消えた。あたしはずっと、原の手を見ていた。ゴツゴツと骨張った、男らしい手だった。


「会社の喫煙所撤廃されたの、まじ最悪っすよね」


 一通り煙を吐き出した原は、続けてブツブツと文句を吐いた。最近はどこも喫煙者の肩身が狭いらしい。ついにこの会社も社内にあった喫煙所を撤廃した。そのおかげで、会社のビルとその隣のビルの隙間にできた暗い影の中が新たな喫煙所と化している。煙草には依存性があるのだから、喫煙所を撤廃しても喫煙者は吸える場所を探すだけだ。


「あたしは別に、喫煙所があろうがなかろうが正直どうだっていいよ。普段から吸うわけじゃないし」

「三井さんまで…。大体うちみたいな中小企業、その辺残しておかないとどんどん人減りますよ。上ももうちょっと考えてくれればいいのに」


 うちは大手企業の下請けメーカーで、それなりに安定はしているが大きな会社ではない。そのせいか、多くの社員がスキルアップを目指して退職していった。


「大きい会社はもっと早くから禁煙活動やってるって。これからは喫煙者の肩身が狭くなる一方だね、きっと。それに転職だってそういう時代なんだから、仕方ないよ」


「まあ、そっすよね。俺も転職しようかな」

「へえ。なんかやりたい仕事でもあるの?」


あたしは半分、社交辞令として訊いた。何度も吸った煙草はもう随分と短くなっている。


「うーん、どうだろ。映像系とか? 俺、似合いそうじゃないすか?」

「…まあ、頑張りな」


原は適当そうな答えを、少し真剣な顔で言った。あたしは返事もそこそこに、煙草を携帯灰皿に押しつけて、ミントのタブレットを口に含んだ。そろそろ、執務室に戻らないといけない。


「あれ三井さん。その手、どうしたんすか?」


 灰皿を扱うために取り出したあたしの左手を見て、原は「あれ?」という顔をして口を開いた。左手の甲には、成りかけの目を隠すためのガーゼを貼っている。


「ああ、ちょっとぶつけて怪我したんだ」


 私は少しぶっきらぼうに返した。原は「案外おっちょこちょいなんすね」と笑った。あたしはそう言う原の顔を見ることが出来なくて、そのまま背を向けて歩き出す。それから一度立ち止まって、思い出したみたいに言った。


「そういやさ、あたし仕事辞めるんだよね」


 原が零した「え?」という音で空気が震える。


「え、冗談すよね?」

「いや」

「…いつ、ですか?」

「退職は一ヶ月後くらい。でも二週間後に有給消化入るから、もう出社しない。ごめんね、まともに引き継ぎもできなくて」

「いやなんか、随分とまた、突然ですね…なんで、」

「色々あってさ。じゃあ、そういうことだから。あたし、もう行くね」


 原はまだ口を開いていたが、あたしは何も言わせないまま歩き出した。たぶん、部長の機嫌が悪かったのはあたしのせいだ。

 あたしはついさっき、まともな理由も説明しないままこの会社を辞めることにした。そんな風に突然辞めると言い出せば、上司は大変な思いをするのだろう。だけどあたしには時間がない。だからごめん、許してって、心の中で謝った。



 あたしはビルに戻ると、執務室の扉を潜った。ここはいつだって殺伐としている。


「あ、朱理、遅いよ〜」


 なんとも言えない空気の中を突き進んでデスクに向かうと、優奈がすぐに声をかけてきた。彼女の黒くて艶やかな髪は肩口で綺麗に揃えられていて、瞬きするたびにまつ毛が風を起こすみたいだ。


「ごめん」

「もう、引き継ぎ間に合わないってぇ」

「本当、ごめん」

「大体なんでこんな突然辞めるわけ? 相談くらいしてくれても良くない?」

「うん、ごめん。ちょっと色々あって…」

「色々ってなによ」

「…まあ、色々」


 申し訳ないという顔をしながらそう言えば、優奈は「あっそ」とだけ答えた。あたしの仕事は、一旦優奈が引き継いでくれるらしい。それからまた、バランスを見て他に振ってくれると言っていた。優奈には申し訳ないが、あたしには時間がない。できるかぎり早くここから去らなければならない。好きではなくても、慣れ親しんだ場所で冷たい視線を浴びるのは、想像するだけでと怖いから。

 幸いにも、あたしの担当していた仕事には大体マニュアルがあったし、新しく自分で企画したものも当初からマニュアルと説明書きをつけておいた。今進めている給与形態関係の仕事を除けば、案外スムーズに引き継ぎができそうだった。あたし一人が消えたところで、たぶん大丈夫。


「大体こんな突然の退職、上も良く許したね」

「止められたけど、押し切っちゃった」


 今朝、上司に告げた時、もちろん上司は理由を訊いたし、配置転換を打診してなんとかあたしを引き止めようとした。でもあたしは何も答えることなく「すみません」を繰り返して退職したいとだけ伝えた。あたしは殆ど理由を口にしなかった。ただ一つ、これから暫く病院に通わなければならないという事を除いては。もちろんその後、病名も尋ねられたし、福利厚生の説明もされたけどそれ以上は何も言わなかった。

 そんな話し合いはそれなりの時間を要したけど、折れないあたしに対して最後は向こうが折れてくれた。そしてあたしは、退社することが決まった。


「というかさ、なんかあったの? 体調不良で休んだかと思えば、手に怪我を負って出社してきてそのまま突然退職するなんて。ちょっと普通じゃないでしょ」

「うん、まあ色々ね」

「なによ色々って。言えないようなこと? ちょっと心配なんだけど」


 優奈が心配しているのは、本当にあたしのことだろうか。それともあたしの穴埋めため、暫く忙しくなる仕事のことだろうか。あたしと彼女の仲は悪くないけど、あたしはどこか信用できなかった。既婚者の課長と『デキている』ことを知っているからかもしれない。それにあたしは昔から、人を信頼するのが苦手だった。


「ごめんね、迷惑と心配かけて」

「まあ言えないなら別にいいけどさ。あとその手の怪我、そんなに酷いの?」


 優奈はタイピングの合間に聞いた。手の甲にデカいガーゼを貼り付けていたら、当然気にもなるだろう。


「そこまで酷くはないんだけど、ちょっと見た目がグロいんだよね」

「わお。隠してくれてありがと。それは見たくないわ」


 返事と一緒に幾つかの資料をメールで送った。素早く「thank you」と返ってきた。やはり彼女のタイピングは早い。


「でも気をつけなね。こないだ私の友達がそういうガーゼしてたら、電車でサードアイだってイチャモンつけられて殴られかけたらしいから」

「うん、気をつける」


 ゾッとして、胸がチクリと痛んだ。

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