第六話 あたしと後輩
キーボードの上を走り回る自分の手が気になって仕方がなかった。周りにある目が怖くて仕方がなかった。文字を入力するたびに手の甲に貼ったガーゼが剥がれないかと心配になった。剥がれてしまった時、この目を誰かに見られたらと思うと酷く恐ろしくなった。
「ねえ朱理、今日のお昼どうする? どっかランチでも行く?」
ふと、優奈が声を発した。見つめた先の時計は十一時四十五分を少し過ぎたところで、気付かぬうちに昼休みがもう目の前まで迫っている。どうにもあたしは、僅かばかり間ぼーっとしていたらしい。優奈の声にハッと意識が戻ってきて少し驚きながらも、あたしは努めて平然を装いながら返事をした。
「あー、今日はコンビニにしようかな。引き継ぎの資料も確認しなきゃだし」
「そっか。じゃあ私はランチに行ってくるよ」
あたしが返事をすると、優奈は「何にしよっかなー」と一人呟いて、チラリと課長の姿を目で追った。たぶん昼は二人で食事にに出るのだろう。特別、珍しいことでもなかった。
全てがいつもと変わらない。仕事して、たまに愚痴を溢して、終わりのチャイムを待つだけの日常。ただ一つ違うのはあたしの体だけ。でもまだ誰も気づいてない。だからまだ、あたしは普通でいられる。別に今の仕事が特別好きどというわけではなかった。ただこの普通の世界に身を置いている間だけは前のあたしと変わららない気持ちになる。このままずっと、たまに「辞めたい」なんて思いながらここで普通に働き続けたかった。でももうそれは叶わない。あたしの左手が疼いた。
お昼を告げるチャイムがこだまして、執務室の中に人の波が生まれる。優奈が「行ってくるね」と手を振って、課長の視線がその姿を追った。あたしはそれを、ぼんやりと見ている。背中を深く預けた椅子が、あたしの代わりキイと鳴いた。
「飯、行かないんすか?」
鳴いた椅子に返事をするみたいに、原の声があたしの背中にぶつかった。
「うん。引き継ぎあるし、お腹空いてない」
コンビニに行くのさえ、少し面倒になってきた。
「まだ、体調わるいんですか?」
言いながら原は、優奈が空けた席に着く。誰かが執務室の明かりを消して、ブラインドの隙間を縫った柔らかな光だけが辺りを包んだ。
「大丈夫だよ。ただ、食べる気がしないだけ。原は行かないの?」
「もちろん行くっすよ」
「そっか。行ってらっしゃい」
あたしは右手を振る。左手は無意識のうちに机の下にしまっていた。
「つれないっすね」
「そうかな?」
「そうっすよ」
人が減った執務室は静かで、換気扇の音がやけに響いた。漂う空気が、僅かに軽くなった気がする。
「ねえ、今度メシ行きましょうよ。送別会」
「突然辞めてみんなに迷惑かけるんだから、送別会なんて大丈夫だよ。気にしないで」
「じゃあ、普通にメシ行きましょう。俺、ずっと三井さんと行ってみたかった」
原がこっちを見つめるから、あたしは目線をパソコンのディスプレイに移した。
「…ありがと。でもごめん」
「はは、本当、つれないっすね」
大袈裟に仰け反った原の背中で、椅子がキイキイと応えた。
「もっと前に誘ってくれたらよかったのに」
「そしたら、一緒に行ってくれましたか?」
「うん。きっとね」
そう返すのは、本心だった。たぶんこうなる前だったら「いいよ」って、あたしは返事をしたのだろう。
「そう返されたら、より一層残念ですね」
「ごめんね」
「まあ、いいっすよ。でも最後に誘ってみてよかった」
「うん」
「理由は、訊かないほうがいいんすよね?」
「そうしてくれると、うれしいかな」
隠した左手を握りしめながら見つめた原は、人懐っこい笑顔を見せた。
「じゃあ、そうします」
あたしは「ありがとう」とだけ返した。笑顔で返したかったけど、笑えていたかはわからない。
「俺、メシ行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
尻ポケットに手を突っ込んだ原の背中が扉に向かう。「振られちゃったー」って明るくて呟いていたけど、その心はわからない。
彼の姿が消えた執務室の中を、あたしはゆっくりと見渡した。別に好きではないけど、もうすぐあたしと無関係の場所になると思ったら少しだけあたしを悲しくさせる。ぽつぽつと人がまばらのそこで、あたしはデスクに頬を落とした。パソコンの熱で温まったそこは気持ちがよくて、あたしは目を閉じる。そのまま暫くの間眠っていた。チャイムで目覚めて、また働く。
あたしの日常の終わりまで、あと二週間。
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