第七話 私と社会

 会社を辞めると告げた日から、あたしはカレンダーに赤いバツの印をつけ始めた。黒い丸で囲まれた数字が最後の出社日で、そこにバツが重なるまであと三日。あと三日過ぎれば、あたしは社会から切り離される。毎晩赤いペンを握るというその行為は、まるでカウントみたいだった。あたしは今、あたしがあたしでいられる時間の終わりを数えている、そんな感じがした。

 自慢じゃないけど、あたしは友だちが少ない。中学校も高校も大学もその時々では居たけれど、自分から連絡をすることが少ないあたしは、それぞれ数年で疎遠になった。たぶん、原とも優奈とも、また数年で他人になる。

 そんなことを思いながら向かう会社は、まだあたしを社会の一部だと認識させてくれた。だがそれと同時に、恐怖を植え付ける。目立つガーゼは、そう何日もつけ続けられるものではなくて、四日ほどつけた後で大きめの絆創膏に変えざるを得なかった。それでももう四日もすれば、いつまでつけているのだと怪しまれる。あたしは「あんまり見せたくない」とだけ返してやり過ごした。

 手の甲の目はもう、まつ毛まで生やして殆ど目になっている。仕事を抜け出して向かった大学病院では間も無く完全な目になると言われて、専用施設の予約をさせられた。淡々と告げる医者の口調は、何人もいる患者の中の一人に過ぎないのだと告げていて、医者からすれば大多数の中の一つなのに、あたしには一つしかない体なのだと思えて悲しくなった。

 今日も「おはよう」と口にして、あたしは優奈の隣に腰を下ろす。優奈は「おはー」と気怠げに返した。みんなのいつも通りはこれからも続くのだ。弾き出されるのはあたしだけ、そう思ったら肺とか心臓の辺りがきりりと軋んだ。


「朱理の最終日まであと三日かー。二週間って結構長いと思ったけど、あっという間だね。超バタバタ」

「うん。すぐだった」

「てかその絆創膏、今日もしてんの? そろそろ治ったでしょ。ちょいちょい噂されてるよ? 良くなってるんなら外しなよ」


 あたしは「うん」と小さく返した。治りはしない、むしろ、進行を続ける左手の甲を右手で押さえる。噂もなんとなく理解していた。突然の退職と不自然な怪我。みんなあたしを、サードアイじゃないかって言っていた。


「原がさ、すっごい嘆いてたよ」


 挨拶をして、何の意味も成さない上司の言葉を聞くだけの形式的な朝礼を終えて、椅子に腰を下ろすあたしに優奈が言った。


「どうして?」

「ご飯、もっと早く誘えばよかったって」

「うん。もっと早く誘ってくれればよかった」


あたしはぽつりと本音を落とした。優奈は「そっか」と呟いてパソコンの電源を入れる。ファーと小さく冷却ファンの音がした。あたしも静かに電源をつける。デスクトップは随分と整理されていた。


「最後くらい、行ってあげれば?」

「うん。そうしてあげたかった」


 優奈は「ふうん」と言ったきり、それ以上は何も聞かなかった。

 結局あたしはこの二週間、退職の理由を誰にも告げなかった。訊かれても、嘘もつかずに「すみません。諸事情で」とだけ言った。そのせいで尾ヒレをつけた噂が静かに広がっていったが、あたしは否定することもしなかった。いや、あたしだって本当は否定したかったけど、いつも存在する左手のそれがあたしに否定をさせてくれなかった。だから静かにそれを受け入れる。受け入れて、疎遠になって、他人になって、あたしは静かにここを出ようと心に決めた。

 あたしは会社のデスクを片付けた。パソコンのデータも整理した。一人暮らしのアパートにならんだ家財もほとんど片付けた。あたしは引っ越しをする。行き先は決めてない。でもここじゃないどこかに行く。そう決めた。


「あたしさ、結構非常識だよね」


 パソコンを見つめたまま、あたしはぽつりと言った。


「どした? 突然」

「いや、ふと思ってさ」

「…まあ、そうかもね」


 優奈は暫く思案したあと、あたしの呟きに同意した。


「でも人生、そんな時もあるんじゃない?」


それからそう付け足した。あたしは「そっか」とだけ言った。


「お昼さあ、ちょっといいランチ行く? 空いてたらだけど」


 ホワイトボードに貼られた課長の名札の隣に「出張」と記されているのを確認してから優奈は言う。あたしは「いいよ」と返した。それから昼までの予定を確認しながら、パソコンの画面を見つめる。キーボードに置かれた左手がチクリと痛んだ気がした。

 ものすごい勢いで、でもリズミカルにタイピングする優奈は「何食べよう」と口にした。あたしもタイピングしながら答えようとしたが、やはりどうにも左手が痛む気がする。


「朱理、どした? 顔色わるいけど…」

「…あ、ごめん。だいじょぶ、なんでもな…」


 痛みの次は、とんでもない気持ち悪さが襲ってきた。視界がぐわんぐわんと揺れている。見覚えのない真っ白な世界が、視界の端や真ん中に現れては消えてを繰り返して目が回った。酷い乗り物酔いをしたみたいに、脳みそが揺れている。迫り上がってきそうになる胃の中身をどうにか留めて、あたしはギュッと目を閉じた。そうしたら驚くことに、視界が今度は真っ白に染まる。気持ち悪さで揺れる思考の中、あたしは「ああ、これが左手で見た世界か」と実感した。感情のせいか、この気持ち悪い感覚のせいかわからない涙が流れる。すると左手の絆創膏も少し湿った。


「こいつも泣くのかよ…」


 あたしはしゃがみ込む。みんなが驚きの色を滲ませた顔で「大丈夫!?」と口にするのを、薄らと開けた両目で確認してから「救急車を呼んでください」と伝えた。それからもう一度瞼をギュッと閉じて、左手の甲を握りしめながらしゃがんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る