第八話 決断と決別

「朱理!」


優奈の声がする。焦りと心配を含んでいた。


「三井さん!!」


原の声もする。でもその姿を見ることはできなかった。

 バタバタと周りが忙しなくなる。常駐の看護師の声も聞こえてきた。


「どうされました?」

「…気持ちが、悪くて…」

「救急車も呼びましたから、大丈夫ですよ。でももし伝えられるなら、どう気持ちが悪いか教えてもらえますか?」


看護師は「安心してください」と騒つく周囲とは随分と異なる優しい声であたしに話しかけた。あたしは眩暈がするとだけ伝える。理由は絶対に口にしない。


「一旦血圧を測りましょうか」


 看護師が左腕を掴む。あたしの右手は左手の甲を押さえたままだった。


「左手が痛むんですか?」


その様子を見て、看護師はあたしの右手を退かそうとする。だがそこだけは、絶対に見せることはできなかった。


「…大丈夫です」

「でも、」

「大丈夫ですから!」


思わず大きな声が出た。左手を掴んだまま右腕を振り、肘で看護師を退ける。焦ったあたしの、咄嗟の行動だった。

 その瞬間、空気が凍った。目を開けなくともそれはわかる。肌が、それを感じたていた。

 冷えた空気に耐えかねて、謝罪の言葉が口を突く。


「あ、すみません…」


目を閉じて、下を向いたまま口にする。口にした後、声が漏れた。


「…あ…っ」


 もう、あたしは終わったと思った。だって、人の顔が見える。両目は固く閉じているはずなのに、あたしを見下ろし、覗き込む人の顔が見える。

 たぶん、勝手に流れた涙と溢れた冷や汗が絆創膏から粘着力を奪ったのだ。それから振り払うために動かした右腕が、絆創膏を剥がしてしまった。

 遮るものを失った目が、世界を捉える。あたしの世界が、完全に終わった。


「…朱理って、やっぱりサードアイだったんだ」

「…」

「だから、辞めるんだね」

「…うん…ごめん」

「ごめんって、なにが?」


 あたしは右手で左手を押さえ直すと、見下ろす優奈を見上げた。薄く開いた瞼の先で視界はふわふわと揺れ動き、頭はちりちりと痛み出す。それでも視線を外さなかった。優奈は硬い表情で、あたしをじっと見ていた。


「私、別に怒ってないよ。それから苛めは醜いしカッコ悪いと思ってる。だから朱理がもしそうでも、何も言わないつもりだった」

「…うん」

「でも実際目にして見ると、怖いね。うつるとか、その目で何を見るんだろうとか、考えれば考えるほど、気味が悪い。私、その病気に対しては殆ど無知なんだ。知らないから怖い。怖いし、気味が悪い。だから私の方こそ、ごめん」


 優奈はそれだけ口にして、ゆっくりと目を逸らした。原はあたしに、冷たい視線を送っていた。

 たぶん、優奈も原も、おそらくここにいる殆どの人間がそうだろう。そしてあたしも同じだった。

 見たくないものからはできる限り目を背ける。だから病気はいつだって隣にあるのに、自分は大丈夫だと気がつかないふりをした。そうして理解を拒む。

 そして無知は怖い。嘘に踊らされて、真実を否定する。

 あたしは左手に奇妙な目が増えただけで、その前と何も変わらないはずだった。だけど周囲は変わってしまう。

 恐れていたことだった。拒絶は怖い。この病は感染しない。それを正しく認識している人は、ここにどれだけいるだろうか。だがもし居ても、あたしの見た目が奇妙であることは変わらない。

 拒絶は怖い。だが、それを受け入れる他、あたしにできることはない。遠くに、救急車のサイレンが聞こえた。

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