第九話 空と木

 あたしは真っ白で無機質な枕に頭を預けて、瞼を閉じていた。それからその顔を、じっと見ている。

 鎖骨の辺りまで伸ばしていた髪は枕の上に散らばって無秩序な線を描き、メイクを施していない肌が僅かにくすんでいる。呼吸に合わせて胸は上下し、唾液を嚥下するたびに喉が動いた。鏡越し、画面越しではない肉眼で捉える自分の姿はどこか不思議でひどく奇妙だ。

 あたしはベッドに横たわり、左手を顔の前に掲げていた。たったそれだけで、あたしはあたしの顔を見下ろすことができる。


「はぁ…」


 大きな溜息が思わず漏れた。殆ど無意識のような溜息を、もう何度ついただろうか。そんな溜息をつく瞬間の、微かに動く唇すらも瞳は逃さず捉えてしまうから、あたしは繰り返えす溜息め止められない。


「調子はいかがです?」


 溜息をかき消すように、ノックの音と女の声が飛んできた。その声は酷く無機質で、顔を見なくても冷めた表情が脳裏に浮かぶ。

 あの日、会社から救急車で運ばれたあたしは、このサードアイ患者専用施設に連れて来られた。ここであたしはひたすら訓練をしている。


「酔い止めはまだありますよね? 追加が必要なときだけ声をかけてください」


 あたしが返事をしなくても、女は淡々と事務的に話を進めた。発症者も少なく、その中でも目として完成するに至るのはほんの一握りだからか、連れて来られたこの施設は小さくて酷く無機質だ。さらには病院のように医療行為を行うわけでないため、スタッフも少なく設備も最小限。郊外の山の中に、ぽつんと建つその姿は別荘のようでもあったし正常な人間からあたしたちを隔離するための牢獄のようでもあった。


「では、また」


 そう言って、女は立ち去る。その直前、あたしは左手の甲を部屋の扉に向けた。そうしたら四十を過ぎた辺りの女の両目と目が合う。もうこちらなど見ていないと思ってそうしたから、突然ぶつかった視線に気まずさが充満して「すみません」とだけ口にした。女は何も言わずに扉を閉める。奇妙な目で見つめたから、気分を害してしまったのかもしれない。


「はぁ…」


 また溜息が出た。もう、ここに来て三日が過ぎている。この場所は息が詰まって仕方がない。だからこんな場所早く出てしまいたいのだが、訓練を終えるまでは出られない。

 行う訓練はたったの二つ。一つは瞼を閉じる訓練、もう一つは視界に慣れる訓練。できるようになるためには繰り返し、勘とコツを掴むしかなくてなかなか先に進めない。

 あたしはその訓練にただ時間を費やす。娯楽はない、楽しむ余裕もない、ここに流れる時間にはどこか感情が欠けていた。


「さて…」


 一人で過ごすと、独り言が増えた。あたしは誰に言うでもなく呟いて、訓練を始める。左手の指をくいと後ろに引くようなイメージで瞼を閉じる。手や足といった部位は動かし易いらしく、一つ目の訓練は割合スムーズにクリアすることができた。しかし問題はその次だ。両目も左手の目も閉じたまま、あたしは仰向けに寝転ぶ顔の前に左手をかざした。そしてゆっくりと、全ての瞼を開ける。三つの瞳が捉える視界が頭の中でぶつかり始めて、鏡合わせの世界みたいに画像が歪んだ。瞬く間に乱れて、酔っていく。ぐわんと揺れる脳内が、不快感となって胃や食道を刺激した。僅かに慣れてはきたものの、強い衝撃があたしに両目を瞑らせる。

 真っ白な寝具の上で、皺が寄るほど強く目を閉じたあたしの姿が今度ははっきりと脳内に現れた。ハクハクと浅い呼吸を繰り返す姿は何とも無様だ。見かねてドサリと左手を下ろせば、視界はぐるりと回って真っ白な天井に変わる。

 そっと静かに、左手の瞼も閉じた。視界から光が消えて、真っ暗な映像だけが脳裏に浮かぶ。目を閉じたまま深呼吸を繰り返せば、僅かに呼吸が楽になる。

 だけど同時に、暗闇はあたしにあの日のことを思い出させた。あたしの世界が終わったあの日のことだ。痛いくらいに冷たい、周囲からの拒絶の目線が未だにあたしの体を突き刺してくる。


「暗闇は怖い、でも何かを見るのも辛い」


 言葉にする。だけどここには話し相手も居ない。溢れて壊れそうになる感情を吐き出したって、どうにもならない。それでも吐き出す他、あたしにはやることがない。

 辛いという感情が膨らむたびに、ますます閉塞感が大きくなった。こんな場所、さっさと出て行きたい。


 でも出て行って、どこに行くのだ。


 沸いた疑問にはすぐ蓋をした。左手の瞼を閉じて、両目を開ける。


「外、行こ」


 ここは息苦しい。でも前いた世界も、きっともう息苦しい。それでも死ぬには命が惜しい。

 あたしは一先ず、思考、感情すべてを隠してベッドを降りた。スライドドアを開けて廊下に足をすすめると、さっきの女が静かに床を掃いていた。窓の外には紅葉を控えた葉をゆらゆらと揺らす樹が並んでいて、晴れた空は気持ちよさそうに澄んでいる。

 ただ部屋を出たって何もないことを思い出した。また溜息が出る。


「外出は構いませんけど、あまり遠くには行かないでください」


 ぼうっと窓の外を眺めていると、女が床に向かって声を出した。床を見ていてもそれはあたしに向けたものだったから、あたしは頷き半分みたいな会釈をする。床しか見ない女には見えていないだろうけど、あたしは一向に構わなかった。あの人だって、あたしに構われたくはないだろうから。

 施設は狭い。少し歩けば無機質な病院の待合室みたいなロビーに出て、その先でガラス張りの手動ドアにぶつかる。あたしは冷たいガラスを押して外に出た。出たけれど、山頂と麓をただ繋ぐだけの細い道以外になにもない。

 風が吹いた。足元を落ち葉が転がっていく。知らない鳥が甲高い声で鳴いた。ほとんど聞いたことのない声だった。葉と葉が擦れて音になる。『何もない』は嘘だった。ここには草木と寒さがある。

 無意味に落ち葉を踏んでみた。秋みたいな音がした。風が吹いて、髪を揺らす。荷物を持ってきてくれる人もいなくて、施設の病衣にカーディガンを重ねただけの肩を抱く。そのままアスファルトに寝転んで、空を見た。車が来たら撥ねられるけど、たぶん来ない。白い雲を薄く伸ばした青い空を、鳥が横切る。背中を預けたアスファルトが少し冷たい。あたしは左手を胸に乗せた。

 鳥を見送った両目を閉じて、左手の瞼を持ち上げる。そういえば、この目で空を見るのは初めてだった。いつもより澄んで見えるけど、気のせいかもしれない。薄い雲が、右から左に流れていく。

 なんだかふと、今ならいけそうな気になってきた。左手の瞼も閉じる。世界はまた、真っ暗になる。草木の音、遠くの鳥の声が鮮明に聞こえた。秋の空気を吸い込むみたいに、二度深呼吸をしてから息を止める。それから「せーの」と心で呟いて、全ての瞼をゆっくり開けた。


「わ…」


 空が、いつもより広かった。澄んだ世界が、広がっている。


「はは…できた…」


 やっと出られる。まず、それを思った。嬉しくて、広くなった世界を思わず見渡した。まずは両目をくるりと動かし広い空を堪能する。それから首を右に傾けて、風に揺れる木々を見る。


「うっ…お、え…っ」


 途端に気持ち悪さがあたしを襲った。空と木々が混ざり合って目が回る。結局また、駄目だった。喜んで、落とされて、涙の膜が瞳を覆う。溢れる前に瞼を閉じた。

 珍しく、微かなエンジン音を鼓膜が拾う。ここはずうっと一本道だ。

 

「もう、いっか…」


 あたしは涙の代わりに乾いた笑みを敢えて溢した。身体は冷たいアスファルトに預けたままだった。

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