第十話 美しいと醜い
「ねえ、なにしてんの?」
声が頭上から落ちてきた。抑揚がなくて冷たい、冬みたいな声だった。
「…トラックとか、せめて乗用車ならよかったのに」
ゆっくりと両目を開ける。白くてコロンとした可愛らしい原付バイクが停まっていて、長い髪の女が私を見下ろしていた。逆光で顔は見えないけれど、無機質な声が硬い表情を連想させる。
「迷惑な人」
「あたしね、最近ずっとそうなんだ」
「あっそ」
彼女の髪を風が攫った。とても綺麗な顔をしていた。すうっと高い鼻と大きな目、そこに見合うだけの大きくて真っ黒な瞳はまるで作り物だ。
「残念だけど、ここにはトラックも車も、人だってほとんど来ないよ」
「知ってる」
この三日間で理解した。ここは寂しくて寒くて何もない。
「じゃ、さっさと諦めて、どっか行きなよ」
「うん」
そう答えながらも、あたしは動かなかった。だって何もかもどうでもいい。
「一つ教えといてあげる。毎日十一時ごろ、仕出しの弁当を運ぶ軽自動車が来る。死にたいならその時間にしたら? 山道をゆっくり走る車に轢かれて死ねるかは知らないけど」
バイクに乗ってきたからか、彼女は長いマフラーをぐるぐると首に巻いていた。声も表情も彼女の何もかもが冷たく感じるのに、マフラーだけは妙に暖かそうで何だか少しバランスが悪い。でもそれが酷く魅力的で、全てがどうでもいいはずなのに少しだけ彼女のことが気になった。
「詳しいね。それにこんな場所、何しにきたの?」
無視されるだろうと思いながらも聞いてみた。
「私、嫌いなんだ、ここ」
返ってきたけど意味はわからなかった。
ずっと空と向き合っているのは眩しくて、あたしは柔く瞼を閉じる。冷たい彼女の表情が、あたしの目からは見えなくなった。
「嫌いななのに来たんだ」
「嫌いだからね」
「君、変わってるね」
綺麗すぎるその顔からは年齢を推測できなくてそう言った。だけど多分、あたしよりは歳下だと思う。
「嫌いだからさ、いつか爆破してやろうかと思ってんの」
「いいね」
声の温度が低いせいで、言葉の真偽は掴みづらい。それでもあたしはくすりと笑って同意した。
「ねえ、そん時はさ、あたしも巻き込まれるの?」
「いや。なるべく人は、殺さないつもり」
「そっか」
何故か彼女は、寝そべるあたしの隣に腰を下ろした。あたしは今、左手を隠してなどいないから彼女の行動が不思議でならない。
「あんたさ、いつからここに居るの?」
「…ねえ多分、あたしの方が歳上だよ」
「そう。それで、いつからいるの?」
「…今日で三日目」
「ふうん」
あたしに興味はなさそうなのに、ずっと居座る彼女の目的はなんなのだろうか。でも久しぶりに会話と呼ばれるものをした気がして、あたしからここを立ち去ることはできなかった。
「こんなとこ、早く出て行きたいよ」
どうせ素っ気ない返事がかえってくるけど、あたしは喋る。
「私はね、一年と二ヶ月と十六日、ここに居たよ」
「え…?」
思わずあたしは両目を開ける。彼女の表情は相変わらずだった。
「ここ、地獄でしょ? だから嫌いなんだ」
風がないと暑いと言う彼女が、長いマフラーをくるくると解いた。長い髪に静電気が起きて乱れていく。その髪の奥の方、右の首筋あたりで彼女らしい大きな瞳が瞬きをした。
「見過ぎ。失礼」
「ごめん」
少し強い風が吹いた。あたしは寒くて肩を抱く。彼女は三つの目を少し細めた。それすらも怖いくらいに綺麗で絵になる。
「君、綺麗だね」
「知ってる」
思わず溢したあたしの言葉に、彼女は髪をかき上げながら同意した。でも口元に
「私は綺麗じゃないと、意味がないから」
「どういうこと?」
「綺麗になるように作られたから、綺麗じゃなきゃ意味がないの」
「整形でもしたの?」
それからあたしは今の時代、整形なんて案外普通でしょと言葉を付け加えた。彼女は「そういうことじゃないよ」とだけ口にする。彼女の言葉は終始意味がわからないけれど心地がよかった。
「あんたさっき、ここを出たいって言ってなかった?」
「うん、言ったね」
「出て、どこ行くの?」
また、この質問にたどり着く。さっき蓋をした筈なのに、また開けられた。
「酷いこと訊くね。行く場所なんてあるわけないじゃん」
「そう」
「そういう君は、どこにいるの?」
ようやくあたしは身体を起こした。同じ目線で覗いた顔もやはり綺麗で、だけど少しだけ幼く見えた。
「私は地獄にいるよ。ここじゃない、別の地獄」
「そっか。じゃああたし、ここを出たら地獄じゃない場所を探しに行こうかな」
「ある訳ないじゃん」
「どうかな」
あたしが言うと彼女が立ち上がって伸びをする。表情は、変わらない。
「でもあんた、さっきまで死のうとしてたのにまだ生きるつもりなんだね」
「たしかに。でも、さっきは本当に全部どうでもよかったんだよ」
「ふうん」
「閉塞感はすごいし、訓練は進まない」
「ここはそういうもんだよ」
「そうだね」
彼女はブルゾンのポケットに手を入れて、風に長い髪を遊ばせた。その姿に目が離せなくなる。
「君って本当に綺麗だね」
「だから知ってるって。でももう、私は醜いよ」
「その目のせい?」
「うん。誰もが羨む大きな二重も、二つあれば十分だから」
「たしかに、そうだね」
あたしも立ち上がって、彼女の隣に立ってみた。スラリとした彼女は、あたしよりも拳一つ分背が高かった。
「こんな場所で一年もよく耐えたね」
ふと気になって、足元の落ち葉を踏み潰している彼女に聞いた。
「一年と二ヶ月と十六日」
すると彼女は先ほどの数字を復唱する。
「一年と二ヶ月と十六日も、よく耐えたね」
だからあたしも繰り返した。
「やりたいことがあるからね」
「やりたいこと?」
「そう、やりたいこと」
「訊いてもいいやつ?」
「辞めといた方がいいよ」
「施設の爆破とか、過激なことだから?」
「まあね」
少し冗談で訊いたのに、彼女は至極真面目に答えた。でもずっと表情は変わらないから、本気かどうかはわからない。
「あんたさ、こういう施設が日本に幾つあるか知ってる?」
「…知らない」
問われて初めて考えた。でも、病院みたいに全国に幾つもあるんだろうとは思う。
「六つ」
「少ないね」
「患者自体、少ないからね」
「じゃあ、目になる前に取り除いた患者がまた発症する確率は?」
「さあ」
「あんたって、なんにも知らないんだね」
「ごめん、でもあたしもそう思う」
「約七十パーセント」
「へえ」
それだけ言って、彼女はバイクを押しながら建物の方に向かい始めた。あたしもその背を追った。
「今この施設ってスタッフと患者何人いるの?」
「患者はたぶん、あたし一人。スタッフは女の人一人と、男の人が一人。もっといるかもしないけど、あたしが見かけたのはこれだけかな」
「ふうん」
彼女は建物をぐるりと見渡しながら、変わらないと呟いた。
「本当に爆破するの?」
「さあね」
やはり彼女の声と表情には何もない。だから真偽がわからない。
「教えてくれたお礼に、一つアドバイスをあげる。視界に慣れる練習はね、三つの目で別々の物を見ちゃ駄目。慣れるまでは木々とか空みたいに大きいものを見るの。それから徐々に、色の似た別のものをそれぞれの視界で見るといいよ」
「…その方法、自力で見つけたの?」
「誰も教えてはくれないからね」
「あと、頭の中のイメージはテレビとかパソコンの画面かな。一つの画面に別の画像を二つ並べる感じ。そしてそれを同時に見ずに、どちらかにだけ集中する」
「ありがとう、やってみる」
彼女はもう一度建物の外観をじっくり見たあとで、小さく帰ると口にした。あたしは慌てて口を開く。
「ねえ、名前教えてよ」
「嫌」
「あ、ごめん、あたしが名乗って…」
「あんたの名前も知りたくない」
「どうして?」
「名前知ったら、知り合いになるじゃん」
「これだけ話したら、もう十分知り合いだと思うけど」
「まだ顔見知り程度だよ」
「そうかな…」
「そうだよ」
「知り合いには、なりたくないの?」
「なりたくない。だって近所で見かけるだけの猫が死ぬのと、名前も知ってて触れたこともある近所の猫が死ぬのって、自分の中での重みが違うと思わない? 私はあんたの人生に、私を入れないで欲しいんだ」
彼女の言葉はわかるようでわからないから、あたしは「そっか」と言うしかなかった。
「じゃあ私、帰る」
そのわからない言葉だけを残して彼女はバイクに跨る。
「今日は話してくれてありがとう」
あたしに言える言葉は少ない。彼女は「私はここが地獄だって知ってるからね」とそう言った。それでもありがとうと繰り返す。彼女のバイクは軽いエンジン音を響かせて、山の麓に消えていった。
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