第十一話 木の葉と落ち葉

 あたしは真っ白で無機質な枕に頭を預けて、瞼を閉じていた。それからその顔を、じっと見ている。枕に描かれた無秩序な線も、少しくすんで見える肌も、上下する胸も、動く喉も、見慣れてしまえば案外大したことはなかった。


「調子はいかがです? 問題ないですよね?」


 女の声は今日もする。慣れても心に不快感を膨らませる嫌な声は、いつも同じ時間にやってきては淡々と様子だけを確認してきた。そんな女の行動は最早ロボットも同然だったが、その冷たさの後ろからは隠しきれない嫌悪感が漂っていて、それは正に人間そのものだった。

 あたしの中に沸々と感情が湧き上がる。あたしがお前に何をした、ただそう問いてやりたいと思う。


「それじゃあ、失礼します」


 だけどあたしは何も言わない。言ったところで、どうにもならないからだ。ここにいると声の出し方も忘れてしまいそうになる。

 ここに来て七日が過ぎた。

 あたしの日常もまた無機質だった。決まった時間に食事を摂って、訓練をして、眠るだけ。ただそれだけで、それ以外にはなにもない。娯楽といえば施設の周囲をぐるりと歩きながら「あの彼女」の痕跡を探すことぐらいで、他には何も見当たらない。だがあの美しい彼女が仕掛けた爆弾でも見つかるんじゃないかとか、また現れるのではないかとか、少し期待ながら歩くことは些細ではあるが楽しくもある。


「はあ」


 溜息は無意識だ。左手の目を閉じて、両目を開ける。体を起こし、伸びをする。衣擦れの音がやけに響く部屋の空気は綺麗に澄んでいるのに、嫌に重い。ここは時間の流れがひどく遅かった。


「外、行こ」


 あたしは無意味に呟く。その言葉は僅かに音が掠れていて、いよいよ声の出し方も忘れ始めたのではないかとあたしを不安にさせる。独り言でも言葉を発し続けるのは、あたしが人間で居続けるために必要な行為だ。


「あなた本当に、散歩が好きなんですね。訓練もきちんと行ってくださいよ」


 廊下ですれ違った女は相変わらず嫌な空気を出してくる。あたしは小さく頷くだけにして外に向かった。体で感じる外の風は冷えていて、ここに連れてこられたのが秋でよかったと心の底から感謝する。多少肌寒いが、日差しの下なら外気もそこまで苦ではなかったし、澄んだ空や色づく葉があたしを人間でいさせてくれた。


 ──ここの葉っぱが全て落ちてしまったら、ここには何が残るだろう。あたしはどうするんだろう。


 よぎる思いには蓋をした。


 アスファルトに腰を預けて、全ての瞼を閉じてみる。耳と鼻、それから肌だけで世界を感じた。陽は暖かくて、空気は冷たい。土とか枯葉が柔く混じった匂いがして、鳥の声が鼓膜を揺らす。風は木々を鳴らしている。遠くには微かなエンジン音がした。おそらく仕出しの軽自動車だ。彼女があたしに告げた通り、毎日十一時ごろにそれはやってくる。あたしはたった一度だけ、それを道路に寝そべり待ってみようとした。だけど結局怖くてやめた。こんな地獄で生きていくのも苦痛だったが、こんな生活を無理やり終わらせるのも怖かった。だって終わりは一瞬でいい。

 あたしは両目を開けて立ち上がると、建物の裏手に足をすすめる。仕出しの人に、姿を見られるのは嫌だからだ。建物の裏手は人目がないけど日差しがあって、唯一空気が軽い場所だった。


「三つの目で別々の物を見ない…」


 あたしはここで、彼女の言葉を復唱する。それから首を少し右に向けて、空と木々を両目で捉えた。それから左手を掲げて、左手の目をあたしの両目と同じ高さにする。ゆっくりと瞼を開けて、三つの目で空と木々を見た。パノラマ写真みたいに、すごく広い視界があたしの脳内に広がった。


「一つの画面に別の画像を二つ並べる感じで…」


 あたしは首と左手を動かした。両目と左手の目で殆ど一八〇度反対の景色を見る。意識して視界を制御すれば、気持ち悪さに襲われることもない。


「慣れるまでは木々とか空みたいに大きいもの見る」


 彼女の言う通りに訓練をやりはじめてから、たしかに訓練は捗り始めた。今ではこうして三つの目でそれぞれの世界を見ることができる。あたしは何度も彼女の声を思い返して訓練を続けた。

 記憶の中の彼女が纏う空気は冷えている。だが、あの建物の中で向けられる冷たさとはまるでちがっていた。建物の中に居るあの女が纏う冷たさは酷く不快だ。ぐつぐつと煮えたぎる嫌悪感を抱えて、冷たい氷柱をあたしに向けてくる、そんな感じ。あたしを人間とはみなさないのだと、わざわざ伝えてくるみたで不快感が拭えない。だけどあの彼女が放つ冷たさは純粋な冷気みたいだった。彼女自身が氷柱みたいに冷たくて、美しい。誰も近付けさせない、誰にも近づかない、そんな冷たさ。


「ここを爆破する…か」


 左手の瞼を閉じて、訓練に区切りをつける。すると記憶の中の彼女が、最後にぽつりと言葉を続けた。


「ここが爆発したら、あたしはどこに行くんだろ」


あたしは冷えた空気に訊いてみる。答えは求めていない、喋り方を忘れないためだけの行為だ。だけどその声はやっぱり少し掠れていて、もう昼も近いのに寝起きみたいな声だった。


「ここじゃない地獄に行くんでしょ?」

「…え?」

「あんた、まだ居たんだ」


 カサリと音がした後で、冷えた空気みたいな声が返事をした。振り返ってみると、あたしの背後にあの日の彼女が立っていた。


「…あ、久し、ぶり…」

「たったの四日ぶりだよ」

「…そっか」


 彼女は黒いハイネックのセーターを纏っていて、三つ目の瞳は見えなかった。だけど綺麗なのは相変わらずで、長い髪を風に遊ばせながら立つだけで周りの景色が変化する。


「だいぶ新しい目にも慣れたみたいだけど、まだここを出て行けないわけ?」

「…うん…まだ、完璧ではないからね」


 ふらりと現れた彼女は、表情も変えずに淡々と話した。あたしだけがヘラリと苦笑いをする。


「でも、君のおかげで随分とうまくなったよ」


そう言葉を続けてから、最後に「ありがとう」と付け加えた。だけど彼女は「そう」と冷たく返すだけだった。


「そろそろ仕出しの車に撥ねられたか、訓練を終えて出て行ったと思ってたんだけど、ちょっと早かったみたいだね」

「うん、撥ねられるのはできなかったよ。一応やろうとしたんだけどさ。それに君が一年以上かかった訓練だもん、さすがに四日じゃできないよ」

「一年と二ヶ月と十六日」


そう言いながら、またしても彼女はあたしの隣に腰を下ろした。


「そう一年と二ヶ月と十六日…。いくらコツを教えてもらっても、きっともう少しかかるよ」

「さっさとしなよ、じゃないと私が爆破できない」

「…べつに、あたしを巻き込んだっていいのに」


 そう返したら、始めて彼女の瞳があたしを長く捉えた。じっと見つめられて、あたしは少し息を飲む。彼女は瞳の奥まで冷たかった。


「自分で死ねない人間を私は殺せない。壊すのは、あくまでもここだけにする」


 それからそう言って目を逸らした。あたしは「たしかに」と同意する。少しの沈黙を流したあとで、あたしは話題を変えて話した。


「ねえ、君はどうやってあの方法を見つけたの?」

「別に。普通にゲロ吐きながらひたすら繰り返しただけだよ」


 彼女が言えば「ゲロ」の二文字を品を伴うから不思議だった。


「そっか。ここに居た時は一人だったの? 何年くらい前?」

「覚えてない」

「ぜったい嘘じゃん。だいたい君っていくつなの?」

「教えない」

「なんで? 前に言ってた野良猫がどうのっていう理論?」


 あたしは忘れていた話し方を思い出すみたいにペラペラと話した。それでも彼女は相変わらず何も教えてくれなかった。途中で「ここまで話したら名前を知らなくても知り合いだよ、だから色々教えてよ」って伝えたが、彼女は「あっそう」としか言わなかった。


「なんだか、久しぶりに会話をした気がする」

「あんたが勝手に話してるだけだよ」

「うん。それでも、いいんだよ」


 両目を閉じて、あえて彼女を左手の目で見てみた。彼女は表情を変えない。でも左手で見た彼女は、一層綺麗だった。


「あたしさ、会社も実質クビになったんだよね」


 あたしはそのまま話し続ける。彼女は返事もしなくなったが、そこに居てくれるから話しを続けた。


「もともと退職願を出してたけどさ、この目のことがバレて、ここに連れてこられて、そしたら残りの出社日数は欠勤扱いでいいからって言われて、あっさり終わっちゃった」


 ここに来たあと、スマートフォンを通じてきた唯一の連絡がこれだった。あれっきり、あたしはスマートフォンの電源を切ったままにしている。たぶんどうせ、誰からも連絡は来ないし、来たとしても返さないと思う。


「あたしにとっては、会社が数少ない人との繋がりだったの。それが無くなって、こんな山に来て、孤独だった。だから君と話せるのが嬉しい」


 そこまで話して、あたしは黙った。冷たい空気と一緒に沈黙が漂う。


「…私だって、孤独だよ」


その沈黙を縫うように、彼女はぽつりと言葉を落とした。それは初めて彼女が落とした、彼女自身のことだった。冷たい風が、二人の間を通り抜ける。枝や落ち葉が揺れて音を奏でた。


「じゃあ、あたしと繋がってよ。二人なら孤独じゃないでしょ」


 風の音が止んだ時、あたしは言葉を口にした。今度はあたしが、両目で彼女の両目をじっと見つめる。だけど彼女は相変わらずだった。


「二人でさ、ここを爆破して、地獄じゃないところを探そうよ」


 あたしは誘う。爆破を本気でやるか、できるのか、そんな諸々、今は考えない。


「ね? どう?」


 彼女は私の目を逸らさなかった。だけど少し、表情を崩した。怒っているような、悲しんでいるような、困っているような感じだけど、心は読めない。


「…辞めとく。あんたはさっさと、私のことを忘れな」


 彼女はそのよく読めない表情のままそう言った。あたしは「君の顔は忘れるのに適してないよ」とだけ答える。この綺麗な顔と冷たい温度は、忘れたくてもきっと忘れられないだろう。


「なんでだめなの?」

「なんででも」


 しばらく見つめていたら、彼女がツイとめを逸らして表情を戻した。


「じゃあ、もう何も聞かないよ。だからまた来て」

「どうだろう。まあ、考えとくよ」


それからあたしの言葉にそう返した。そして「もう行く」と告げて立ち上がる。


「期待せずに、待っとくよ」

「はいはい」


それだけ残して彼女は去った。離れる背中には「ありがとう」とだけ言った。彼女は歩みに髪を揺らすだけで、あたしに見向きもしなかった。あたしはそれを静かに見送る。

 

 だが、それから彼女は二度とこの場に現れなかった。彼女を待つうちに山の空気は彼女みたいに冷たくなって、木々は葉を落とした。山が眠るみたいに静かになる直前、ようやくあたしの退所が決まった。

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