第十二話 接続と遮断

「退所にあたって、何かご質問は?」

「いえ、特には」


 ここを去る朝はひどく呆気なかった。昨日までは今日という朝を待ち続けていた筈なのに、いざ迎えた朝に抱く感情は「こんなもんか」だ。むしろ、これからどこに行こうか、お金はどうしようか、家は、仕事は、と不安ばかりが思考を埋める。


「この書類を確認して署名欄に署名を。印鑑はお持ちじゃないでしょうから、そこはサインで結構です」


 ここを出てからの生活は何一つ定かになってないのに、いくつかの書類を部屋に運んできたこの女は今日も淡々とあたしに言葉を投げつける。一つサインをするたびに、あたしは次の地獄に向かって進んでいった。


「書類の確認が終わったら荷物をまとめて受付までお願いします。自宅までの送迎車は手配してありますので」


 テーブルに書類を並べた女は、それだけ伝えるとさっさと部屋を出ていった。部屋にはあたしと数枚の紙切れだけが残って、重く澄んだいつもの空気がしんとあたしの身体を包む。

 あたしは一度、ベッドの上に体を預けた。全ての瞼を開いて、壁や天井を見渡してみる。随分と使い慣れた目はむしろ便利だ。高いところも確認できるし、ベッドの下も覗き込める。そうやって、いろんな方向をぐるりと見渡してみた。何日も過ごした部屋のはずだが、何一つ感慨深いことはない。解放感だって別にない。あるのはやっぱり漠然とした不安だけで、ため息が出た。

 ひとしきり息を吐いたあと、あたしは体を起こして書類と向き合う。だけど内容は頭に入ってこなかった。どうにもあたしの頭には受け入れたくないものをシャットアウトする機能が付いているらしい。病院で病名を告げられたあの日みたいに、目の前の情報は頭の表面で弾かれてしまって思考の中には入ってこなかった。


「給付金、四万円…」


 唯一、お金に関する話だけはあたしの頭も捉えてくれる。読みこんで、この国は一応患者に対してお金を支給してくれるらしいということがわかった。だが月四万円という金額でどうやって生きてゆけというのだろうか。


「仕事、どうしよ」


 この身体を受け入れてくれる勤め先は恐らく少ないだろう。人目につかなくて、個人でやれる仕事をなんとか探すほかなさそうだ。幸い貯金はそれなりにはある。あたしは頭の中にざっくりとした貯金残高の数字を並べてとりあえず数ヶ月はなんとかなりそうなことを確認してから書類にサインを綴った。その書類の全てを束ね、トントンと角を揃えると荷物を抱えて受付に向かう。その受付に繋がる冷たくて短い廊下を歩く瞬間だけは、僅かに奇妙な感覚が心に浮かんだ。目が覚めて、嫌な言葉を聞きながら外に向かう日常がもう明日には無いのだと思ったら、少しヘンな気持ちになったのだ。

 廊下の先の受付ではいつもの嫌な女が、あたしに目を向けることなく座っていた。


「書類です」

「はい」


 あたしは受付デスクに書類を載せる。女がそれを手元に引き寄せたのを見て「お願いします」と一応付け加えた。その時この女まともに会話のキャッチボールをしたのは入所した日以来だとふと気がつく。それからもうこの女と顔を合わせないのだと思ったら、少しだけ精々した。この女はどうなのだろうかと考えていると、最後に文句の一つでも言ってやろうという感情が俄かに湧いてきた。だが嫌悪感丸出しのその顔を見たら結局どうでも良くなった。


「あ、ちなみに車の運転なんですけど、今のところ法的に免許を返納する義務はありません。ただ運転はお勧めしませんし、事故を起こした時の過失は大きくなりますので、一応知っておいてください」

「はい」

「それから送迎車はあと三十分ほどで到着するそうです」


 女は息継ぎもそこそこに、伝えるべき情報だけを並べて繋げて口早に言った。そこにはさっさとここを離れたいという気持ちが見て取れる。


「わかりました。あの、車が来るまで外で待っていても?」


 そんな女にあたしは問う。


「本当、散歩がお好きなんですね」


 すると女は鼻で笑ったようなトーンで答えた。あたしは当たり前に腹を立てたが、あと三十分の付き合いだと思ったらその感情も飲み込めた。そのまま何も言わずにあたしは外に出る。袖を通した服はあの日出社した時のままで、流石に少し寒かった。


「あの子、今日も来ないのかな」


 最後に一目会いたかったけど、彼女は現れそうにない。結局あたしは、彼女の名前も知らないままだ。

 とりあえず日の良く当たる暖かそうなアスファルトの上に腰掛ける。空気が冷たくてアスファルトも冷えていたが、日の光がなんとかあたしを暖めてくれた。風は枯葉や土のような自然の匂いをふくんでいて、ここを出たら田舎に引っ越そうかとも考えてみた。でも車がないと大変だろうか。


「だけどきっと、なんとかなるよね」


 あたしは不安だから、打ち消すために声にした。でも不安はやっぱり不安は不安のままだった。


「大丈夫」


 大丈夫なんかじゃなかったけど、大丈夫だと言ってみた。大丈夫であってほしかった。

 風が吹く。今日も冷たい。落ち葉が転がる。風はどことなく彼女に似ていた。冷たさと澄んだ美しさがあって、あたしの肌と視界を刺激する。隣に置いた鞄につけた、小さなチャームが風に揺れた。久しぶりに開けた鞄の中身はあの日出社した時のままで、財布ともう意味を成さない社員証、それからスマートフォンといつも持ち歩いていたモバイルバッテリーだけが中に取り残されている。スマートフォンはこの時代の人間同士を繋ぐ道具だ。ずっと切っていたそれを久しぶりに起動させるのは少し緊張する。モバイルバッテリーに繋ぎ、起動できるようになるまでの時間をソワソワと落ち着かないままに待った。それから深呼吸をして、電源ボタンを長押しする。

 電波を回復したそれは、とたんに色々なメッセージを受信しはじめた。ブーブーとひっきりなしに震えるそれは大半がショップからのダイレクトメッセージのようで、あたしを安心したような、寂しいような気持ちにさせた。これだけ世間から離れていたのに、誰からも連絡が来ないあたしってなんなんだろうと、自虐の笑みが口角を持ち上げる。その時だった。


──不在着信 43件 母


 胸の辺りがひゅっと縮んで嫌な感じがした。


〈もういい加減にして〉


 それから母からの短いメッセージが画面で光った。

 新しいメッセージから古いメッセージへと遡っていく。母から届いた無数のメッセージが画面に映るたび、指先が酷く冷えた。


〈都合が悪くなると黙る癖、未だに治ってないのね〉

〈どれだけ私に心配と迷惑を掛ければ気が済むの〉

〈施設に入れられてるんだってね、いつ出てくるの?〉

〈とりあえずメッセージでいいから連絡を入れなさい〉

〈ねえ、サードアイって本当なの?〉

〈どうしたの? 大丈夫なの?〉


 最初は淡々としていた母からのメッセージも、新しいものになる程荒れている。大体、あたしは家族にも病気のことを伝えなかった筈だ。それなのに、なぜ母が知っている。


「なんで…」


 ふと口をついて出た声は、情けなく震えていた。


〈あなたの会社からのあなたの荷物が届きました。どういうことですか?〉


 冷えた指先で更に画面をスクロールして、更にメッセージを遡る。


〈連絡もなく、勝手に捨てることもできないため、私物はご実家にお送りしました〉


 上司からのメッセージにたどり着いた。もう二週間以上もまえのものだ。


〈もう殆ど残っていませんでしたが、まだ少し私物が残っていたようです。不要であれば処分しますが、必要であれば郵送します〉


 前のメッセージから更に四日前に届いていたメッセージは、あたしが出社しなくていいと告げられた次の日のメッセージだった。あの連絡を最後に、あたしがスマートフォンの電源を切ってしまっていたせいでこうなってしまったらしい。


「…はあ、最悪」


 抱えた膝に頭を預けて、ため息をついた。母にだけは知られたくなかったのに。

 だが母に知られ、母からの連絡に気づいてしまった以上は連絡をしなければならないだろう。でもどうしても気は進まなかった。だからあたしは電源ボタンに触れて画面をシャットアウトする。あたしの頭と同じように、まだ受け入れたくないのなら気づかないフリをすればいい。セットも何もしていない頭をワシワシと掻いて、忘れたことにした。それからもう一度ため息をついて立ち上がる。もう間も無く、迎えの車が来るだろう。

 パンパンと尻を払い、鞄を手にして歩き出そうとした時、ふと何か光るものを見つけた。キラリと日の光を反射するそれは、なんとなく自然のものでは無い気がする。


「…ピアス?」


 近づいてみると、ゴールドに光るピアスが一つアスファルトの上に落ちていた。拾い上げれば小さな桜型のチャームがキラキラと光りながら揺れて、花びらの一つに埋め込まれた小さな石が一層強く輝いた。ダイヤだろうか、どこか高級そうな感じがする。それをしばらく摘んで揺らしていると、何故だかあの彼女の物のように思えてきた。こんなに綺麗に光るのだから、きっとあの女ではなく彼女の物だろうと、そう思えるのだ。彼女の物だという確信はないけど、これを彼女が落とした物だと思って持っておくことで、きっとあたしは彼女を忘れないでいられる。彼女は自分を忘れてほしいと願っていたが、あたしは彼女を忘れたくはなかった。

 あたしはピアスを大切に握る。それから深く澄んだ空気を吸い込んで、目を閉じた。慣れ親しんだ風の音がする。

 間も無く車が来るだろう。今日でこの地獄とはさよならだ。あたしはこれから次の地獄に向かうのだ。


 そうやって、あたしはピアスをぎゅっと握って歩き出した。

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