第十三話 恐怖と嫌悪

 建物の中にもう一度足を踏み入れるのはどうにも気が乗らなくて、迎えの車は建物の入り口に腰掛けて待つことにした。何もしないでいる時間は、家のこと、金のこと、仕事のこと、家族のこと、他人のこと、これから先の未来に抱えた不安があたしの思考を飲み込んで感情を掻き乱す。手にした鞄や足元の石を今すぐにでも投げ飛ばして、ぐちゃぐちゃにして、泣き喚いてしまいたくなる。だがそんな無様な姿をあの女に見られるのは嫌だったし、そんなことをしたからといって何かが変わるわけでもないことは分かっている。だからあたしは気持ちを無理やり飲み込んで、感情を抑え込んだ。膝を抱えて額を乗せる。地面を見つめながら感情を押し殺す。だけど何が悪かったのか、なんであたしなのか、病気になったあの日みたいに後悔は波になってあたしを飲み込んでいった。

 また、ため息がでる。

 ふと、やっぱりあの日、仕出しの車に撥ねられた方が良かったんじゃないかとか考え始めて、そう考え始めてしまう自分自身すらも怖くなった。何か別のことを考えていないと、本当にダメになってしまいそうだ。


「あら、案外近くにいらしたんですね。探す手間が省けて助かりました」


 そんな感情の闇の中を彷徨うあたしを引っ張り出したのは、望んでもないあの女の声だった。ガラス戸の開く鈍い音と、冷たい声があたしの上から降ってくる。額を膝から外して振り向けば、女はいつもの見慣れた顔であたしを見下ろしていた。


「迎えの車、シルバーだそうです。手続きはもう終わってますから、それっぽい車が来たらそのまま乗って帰ってください」


 女は自分の言いたいことだけをあたしに伝える。あたしがここを去ることが決まっているからか、いつも以上に不遜な態度で接してくる女には相も変わらず腹が立った。だが一応、形式的にあたしは返事をしてやろうと口を開く。しかし放った「わかりました」という返事は閉じてしまった扉に跳ね返されて、ガラスの奥には女の背中が覗いていた。多分これが、この女との最後の瞬間だ。あんまりにも呆気ない別れに思わず笑えて、やっぱり拳の一つでも握ってやればよかったと思った。


「偉そうに、何様のつもり? あんただって大概のクセに」


酷く笑えたから、ガラス戸に阻まれた女の背中には言葉を送る。女と同じような人間にはなりたくなくて、できる限り耐えてやろうと思っていた悪い言葉だった。

 こんな山奥で、世間から疎まれるような人間を世話する人間など、よほどの物好きかそうせざるを得なかった奴くらいだ。ここにいる男女二人のスタッフは、それぞれが一応医療従事者ではあると聞いている。それなりの資格があるはずなのに、こんな辺鄙な場所であんなにも嫌そうな顔をしながら働いているのだから、きっと何かがあるのだろう。主に昼間の世話をするあの女はいつも嫌悪感丸出しだったし、夜間に見かけるあの男はいつだって陰鬱そうな顔をしていた。理由は知らないし知るつもりもないけど、あたしを含めてここにいる人間は何かを抱えてかることは間違いなかった。


「まあでも、ありがと」


だけどあたしは、小声で付け加えた。だって女に対する負の感情を抱いている間は先の恐怖を忘れられたし、こんな感情を抱いている間はまだ自分が人間なんだって、思うことができたから。ちょっと嫌味な顔をして、そう言った。

 それからあたしはガラス戸に背を向けると、左手の甲を見つめる。もう見慣れた目がそこにある。目には見えないけど、後悔の念もそこに重なる。恐怖は重たくのしかかる。でも死ぬのも怖いから生きないといけない。きっと生きることの方が怖くなった時、どうせあたしは死を選ぶんだ。だからそれまでは生きてみるしかないと思う。

 新しい目は奇妙だけど、痛くもないし痒くもない。あたしは随分と見慣れたけど、他人にとっては気味が悪い。あたしの世界を随分と酷く変えてくれたこの目はあたしの一部で、あたしが一番嫌いなものだ。

 あたしは両目をゆっくり閉じる。それから左手の甲で前を向く。

 

 太陽は光っていた。薄い雲は流れていた。枝は風にに揺られていた。


「だけどこの目で見た世界は、何故だかすごく綺麗で嫌いになれないんだよね…」


 口にする。少し笑えた。

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る