第十四話 不安と安心


 両目を瞑って世界を眺めていたら、こちらに近づくエンジン音が聞こえてきた。握り締めていたピアスの感触をもう一度確かめながら、彼女の原付バイクではないかと僅かに期待を巡らせる。だがどうやら違っているようだった。あたしはすぐさま左手を袖の中にしまうと両目を開けて立ち上がる。すると程なくしてシルバーの車が建物の近くに停車した。あれが迎えの車らしい。

 停車した車両は見慣れた日産のロゴとマーチという車名を掲げてはいるものの、二十一世紀ではもうほとんど見かけないような古い形をしていて、小さなタイヤの溝は随分とすり減っていた。そんな車の運転席には白髪の混じった髪と髭をボサボサと伸ばした男が座っていて、こちらをじっと睨んでいる。品定めでもされている気になって少し不快になった。歳の頃は七十に迫るだろうか、痩せた頬と深い皺は男自身をひ弱な人間に見せるのだが、ギロリと開かれた瞼と僅かに濁った瞳が放つ視線の鋭さが妙な畏怖と嫌悪感をあたしに抱かせた。


「あんたかい? 三井さんってのは」

「あ、はい」


 男の視線に追われながら車両に近付くと、運転席の窓をうっすらと開けて男が言った。


「後ろに乗りな」

「…はい」


 この車で、この男と始まるらしいドライブはあたしをどこか逃げ出したい気持ちにさせた。だがこの車がなければ、あたしは帰ることすらできないのだ。

 あたしは男の視線から逃るようにして、素早く後部座席のドアを開いた。しかし男はあたしの動きの一切を見逃さんとするように睨みつけていて、正直居心地が悪い。その視線は乗り込んなおも変わることなく、ルームミラー越しにこちらの様子を睨んだ男は「古い車で悪かったな。嫌なら歩いて帰るといい」と低くしわがれた声で言った。あたしは「いえ、そんなことないです。お願いします」と目を逸らして言う他なくて、だけど「そんなことない」と答えながらも逸らした視線の先で思うのは、やはりシートの質感や色の古さと、この先のドライブへの嫌悪感だけだった。きっとこの人も、何かの事情でこの仕事をしているだけで、あたしみたいな人を無条件に嫌っているんだ。


「で、住所は?」


 男は言う。一応、送り届ける気はあるらしかった。あたしは住所を番地まで告げて、それから近くのコンビニを付け加えた。ここからあたしが住む部屋までは、高速道路を使っても一時間半ほどだったと思う。だけどナビやスマホも見当たらなくて、帰路には少しの不安がよぎった。

 だがそもそもこんな車だ。山道から転がり落ちるかもしれないし、この男の気まぐれに知らない場所で捨てられるのかも知れない。でもそんな不安を感じたあたしは、まだ自分の未来を信じてるんだって思えて少し可笑しかった。


「細かいとこまではわからん。近くなったらまた言ってくれ」


 そんなあたしを知ってか知らずか男は言った。手には地図帳が収まっている。割と新しく見えるが、男の手には妙なくらいに馴染んでいた。

 ギィっと軋むみたいな音を立てて、男はサイドブレーキを解除する。ガコンとシフトレバーを操作すると、車が徐々に動き始めた。加速する車の中で男は、干し柿みたいに茶色くて皺だらけの手を使ってカーオーディオを操作する。聞き慣れないシャンソン歌手の妖艶で澄んだ歌声が、スピーカーからざらついた音で漂い始めた。

 山肌から転がってきた石を踏みつけて、車体は上下左右へ不規則に跳ねる。道は細いのにガードレール少なくて心許ない。葉を落とした木々が作る不規則な影の下を走るせいで、視界はチカチカと明滅する。ずっと一本の細道を下り続ける車内は、暖房のせいか皮膚だけが熱されてカサついた。あたしは男に窓を開けていいかと問いかける。返る声は「好きにしな」とぶっきらぼうで低く短い。あたしは遠慮がちに窓を四センチほど開けた。一応パワーウィンドだった。冷たい空気を感じながら、冷えた窓に頭を寄せる。冷たくて心地が良くて落ち着いた。だけどその直後、石を踏んだ車が一際大きく跳ねて、ゴンと頭が鈍く鳴った。

 暫く走った先で男はウインカーを短く点滅させる。車は緩やかな速度で左に曲がった。一時停止の看板が見えてきたとき、もう一度ウインカーを点滅させる。男がハンドルを捌けば不快感のない速度で今度は右に曲がっていく。

 男のしわがれた手は、常にハンドルを十時十分の位置で持っていた。木々に囲まれた車一台分の細道から、田んぼと民家がぽつぽつと並ぶ片側一車線の道に出てもそれは変わらなくて、走る車の様相は男の態度に反して酷く優しくて僅かにむず痒くなる。

 あたしは周囲を車内から見渡した。山と田んぼに囲まれた田舎町の風景は、人も車も殆ど見えなくて酷く静かだ。ふと正面から原付バイクが近付くのが見えた時、相も変わらずあたしは彼女じゃないかと期待した。だが乗っていたのは制服姿の男の子だった。彼女の家はこの辺りなのだろうか。原付バイクで来ていたくらいだから、きっとそう遠くではないのだろう。


「あんたの家は、都会なのか?」


 対向車もない、横切る車も歩行者もない、小さな交差点の信号で停車した時、男は急に声を発した。しかしぼんやりと彼女のことを考えていたあたしは、間の抜けた声で「え?」と答えることしかできなかった。


「だから、あんたの家は都会なのかって訊いてんだ」

「あ…えと、都会って感じではないです。ここまで田舎でもないですけど」


あたしの部屋がある街は、この風景と比べれば随分と都会と言える。だけど栄えているというには少し寂れてもいた。男の強い語気と突然の質問に驚きながら、あたしは記憶の奥底にしまわれかけていた景色を呼び起こしてそう答える。しかし男は「そうか」と答えたきり、それ以上は何も言わなくなった。質問の意図はわからない。

 信号が青になって、車がまた進み出す。相変わらず男のアクセル操作とハンドル捌きは丁寧なままで、車の性能を度外視すれば快適で安心なドライブだった。稲が刈られて殺風景になった田んぼが視界の後ろに流れていく。あたしは静かにそれを見ている。曲が終わりに近づいて、シャンソン歌手の歌声が止んだ。やがて伴奏も止んで、車内はエンジン音と僅かに開けた窓が鳴らすゴウっという音だけになる。遠くの空をカラスが飛んだ。


「俺の婆さんもな、あんたと同じだったよ」

 

 男がまたしても唐突に声を上げる。呟くみたいな小さな声で、あたしはまた「え?」と間抜けな声を上げてしまった。そんな男の声は、曲が流れていたら気がつかないくらいに小さかった。


「俺の婆さん、まあ嫁なんだがな、あいつもあんたと同じだったよ」


 今度ははっきりそう言った。ちゃんと聞こえたはずなに、返す言葉を探しあぐねるあたしは何も答えることができなかった。


「もう、三年になる。サードアイなんて、ハイカラな名前で呼ばれるちょっと前だよ」


 オーディオのディスクが回って、次の曲が始まった。車の前にバスが来る。速度を落とした車は、バスと適切な車間距離を保った。あたしは漸く「そうなんですね」と口を開いた。


「奇妙な見た目に俺は驚いて、あいつは悲しんだ。だけど俺にとっちゃ、あいつはあいつだったし、俺は俺だった。それに幸い、そう目立つところでもなかったし、目があること以外は何も変わらなかったよ。だから俺も、あいつも、努めて普通に生きようと決めたんだ。小さいけど二人で建てた家で、二人で静かに老いて死にたかったんだ」


 語る男の声の色は『やるせない』という感じで、なんとなくその夢はもう叶わなかったのだと考えさせられた。そのせいでまた、あたしは何も言えなくなる。


「でもな、結局ダメだったよ。ふとした拍子にバレて、気味悪がられて、好き勝手、言いたい放題言われて、再雇用までしてもらってた会社もクビになって、家には住めなくなっちまった。最後は縁もゆかりもない田舎に御隠居だよ」


 やっぱり、とそう思った。


「じゃあ、それでここに引っ越して来て、この仕事を?」

「いや、あのとき引っ越したのはここじゃない別の田舎だ。でもそこにももう住みたくなくなっちまって、ここに流れ着いたんだ。施設も近けりゃ、理解もあるかと思ってな」


 突然の身の上話は、どこまで詮索していいのかはわからなかった。だけど気になる話ではあったし、案外、患者は多いんだと知った。


「それから小遣い稼ぎのために、足のないじいさんやばあさん、それからあんたらみたいな人の面倒を見てんだ」


 男は言ってから、にいと小さく笑った。ルームミラー越しに、少し黄ばんだ歯が見える。それから「俺も大概じじいなのにな」と付け加えた。あたしは「そうなんですね」と口に出す。空気は随分柔らかくなっていた。


「あんたもな、もし病気のことで引っ越すなら田舎は辞めた方がいいぞ」

「どうしてですか?」

「田舎の人ってな、閉鎖的な場所だからか、他所から来た人、特に若い奴を色々と詮索したがるんだ」

「そうなんですね」

はやり田舎に越すのは難しいらしい。移動手段の問題のみならず、そんな問題もあったとは。だが、都会で大量の目に怯えながら生きるのもきっと難しいのだろう。地獄じゃない場所を探すなんて簡単なことじゃない。改めてそう認識させられた。


「あの、ちなみに今、奥さんは?」


 深く詮索するつもりはなかったが、ここまで来てしまってはもう訊かざるを得なかった。男は静かに息を吐いて、ウインカーを操作する。


「…俺をおいて、さっさと逝っちまったよ」


 灯されたウインカーは規則正しく音を立てている。「どうして」なんて訊くこと自体が野暮だと思えた。あたしはまた、何も言えなくなって口を閉ざす。シャンソン歌手の歌声は、優しいのに厳しくもあった。高速のゲートが近づいて、車は徐々に速度を落とす。ETCなんて洒落たものを持たない車は、運転席の窓を大きく開いた。頬を撫でる空気が一層冷えた。


「なあ、あんたを乗せたとき、俺はちっと態度が悪かったよな」

「あ、いえ…」


否定はしないけど、何かそうした理由がありそうで、今は強く否定もできない。


「あんたの顔がさ、あいつに似てたんだ。顔立ちじゃなくて、表情っていうのかな。『死にたくはないけど生きたくもない』ってあいつが俺に言ったあの時と、おんなじような顔してた。だからなんだ、後悔とか、ちょっとした八つ当たりとか、うまく言えんが、まあ色々と、あったんだ」


ついにハンドルの十時十分の位置から右手が外れる。そのまま運ばれた右手は、申し訳なさそうに男の白髪頭を撫でた。それからぽつりと「わるかったな」と声を落とした。


「気にしないでください、大丈夫ですから。大丈夫ですし、その通りなので。私は私のこれからが、怖いんです」

「…まあ、そうだろうな」


 男は優しい声でそう言った。本線と合流する車の脇を、赤いスポーツカーが滑るみたいに走って行った。あたしはそれを見送って、思い出したように口を開いた。


「これまで何人くらい、私たちみたいな人を運んだんですか?」

「あんたで二人目だよ。なにせ患者はそう多くない」

「その人はどんな人でした?」

「中年の男だったよ」


 彼女を運んだのは、残念ながら別の人のようだった。


「そいつはよう、これまでに築いた地位と金、それから手に職もある。人目に着く仕事でもないし、このまま静かに生きて死ぬよって言ってたが、どうなったんだろうな」


 あたしに言ったというよりも、殆ど独り言みたいに呟いた男は、いよいよ運転に意識を戻した。あたしも流れる音楽と景色に身を預ける。


 あたしは久しぶりに、部屋に戻る。ずっと握りしめていたピアスは、しっかりとした熱を持っていた。

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