EYEs.

石橋めい

第一話 終わりと始まり

 ひどく不思議な夢だった。


 真っ白な世界にあたしが一人立っていて、それを何故かあたしが見ている。立ち尽くすあたしはぼんやりとした表情をしていて、まるで自分自身のことを他人の目を通して見ているみたいだった。

 だがこの夢はただ単純に自身を客観的に見ているわけではないようだった。手や足、胴の感覚が、確かに自分の中にあるからだ。視界だけが外に弾き出されたような感覚がして、僅かに嫌な感じがした。

 夢の中のあたしは、視点がいつもと違うせいか足を動かすのも、手を動かすのも難しかった。だからただひたすらに、ぼんやりと立っていることしかできない。立ち尽くしたまま周囲を見渡す、本当にそれだけの夢だった。

 真っ白なその世界は広いような気もしたし、怖いくらいに窮屈なようにも感じた。そして暖かいのに、寒い気もした。夢だとわかっていながらも、何故だか現実であるような気がする、そんな、不思議な夢を見た。


 ⁂


 沈んでいた意識が浮上して、目が覚める。その後で、スマートフォンのアラームが鳴る。本来、アラームが鳴るより先に自力で目覚める朝は清々しい筈なのに、気持ちも体も妙な気怠さに襲われていた。絶対に今朝方見た夢のせいだ。

 あたしは布団の外に腕を伸ばして、鳴り続けるアラームを止めた。深くなる秋の朝は冷たくて、伸ばした腕から徐々に意識が覚醒していく。あたしはスマートフォンが示す6:00の文字を確認すると、充電器から引っこ抜いた。それからいつもと同じように一つ伸びをする。いつもと同じように冷たい床に足をつけ、身をこしらえて、生きるために働いているのか働くために生きているのかわからないような一日を始める。


 筈だった。


「は、なに…これ…?」


 あたしは思わず。文字通り疑った、を。

 あたしの左手の甲に、なんとも奇妙な目があるのだ。ああ、まだ夢が続いてるんだ、とあたしはそう思う。否、思うことにした。でなければ信じられない、いや、信じたくない。頭の奥が重たくて、耳鳴りがする。

 その耳鳴りはまるで、これまで当たり前にあった日常の終焉を知らせるアラーム、或は新たな世界の開演を告げるベルのようだった。


 ⁂


 「Multiple Eyes Syndrome いわゆる『複眼症』ですね」


白衣を着た初老の医者があたしの手、いや、手についた目を見ながら言った。相変わらずあたしの左手の甲には目がついている。まつ毛もなくて、動きもしない、半分だけ瞼を開いたそれは、まるで仏像の瞳みたいだ。そんな目が手の甲に付いているのはあまりにも奇妙で、正直、直視したくはない。それなのに何故か目が離せなくて、ぼうっと自分の手の甲を見つめていた。


「大丈夫ですか?」


 医者の隣で静かに立っていた若い看護師は静かに尋ねる。黒くて短い髪を後ろで無理やり束ねた彼女はどこか小動物のようで、眉毛をハの字に下げる顔はどうにも態とらしかった。彼女にはあたしが、病名を聴いて落ち込んでいるようにでも見えたのだろうか。あたし静かに「はい」とだけ答えた。

 白衣を着た初老の医者は、自身の短い白髪の頭を撫でながら、今度はあたしの顔についた目を見ながら話し始める。チクチクと短い白髪頭はシワだらけの手で撫でられて、髪が起きたり倒れたりしながらジョリジョリと音を立てた。


「この病気、最近はニュースでも『サードアイ』とかって呼ばれて話題ですけど、ご存知ですか?」


「まぁ、なんとなく」


あたしは曖昧に返す。あたしの返答に、医者は机の隅に並べたファイルを指でなぞりながら「そうですか」と言った。勿論あたしは、最近話題のこの名前をことはあった。


「この病気、前兆が有るんですよ。初めは皮膚の下に小さなしこりができて、それが徐々に大きくなっていくんです。そこからしばらくすると皮膚に切れ目が入ってきて、だんだん瞼のようになります。その症状を経て最終的に眼の状態になるんです」


 医者は並んだファイルから、一つを手に取ると中を開きながら言った。開いたページには言葉で伝えてくれた内容が写真付きで載っていた。それを見せながら一つ一つ丁寧に説明する彼には、あたしの「無知」が伝わっていたのだろう。


「先程言ったような前兆には、気づきませんでしたか?」


 医者が聞く。あたしはここ数日のことを思い出してみた。

 たしかに一週間前、あたしは手の甲に虫刺されのような腫れを見つけた。最初はすぐに治ると思って薬を塗るだけで放置したが、それは徐々に大きくなっていった。だがそうなってもあたしは、大丈夫だろうと放置した。

 だって自分がこんな病気になるなんて思いもしなかったのだから。

 そんなここ数日の出来事をあたしはぼんやりと思い出しながら説明していると、いつのまにか、医者はジョリジョリと音を鳴らしながら頭を行き来するその手を止めていた。そして頭に手を乗せたまま、少し考えるような表情を見せて「なるほど」とだけ返事をした。


「腫れてるのは知ってましたが、切れ目が入ったことには気がつかなくて、今朝起きたらこうなってました」


 あたしは説明を付け足す。医者がちらりのあたしの顔を覗いた。嘘をついているとでも思われたのだろうか。


「昨日の寝た時間と、今朝起きた時間は?」


「たしか、十時くらいに寝て、六時に起きました」


 医者が頭に置いていた手を下ろし、今度はカルテに何かを書き込んでいく。あたしのことを書いているのだろうが、あたしにはボールペンの試し書きか子どものお絵かきにしか見えなかった。

 医者は不規則にペンを走らせながら「健康的でいいですね」と言う。「子どものようだ」と言われたみたいで恥ずかしかった。ここ最近忙しくて、昨日が久しぶりのまとまった睡眠でした、と伝えようとかとも思ったが、面倒になって「そうですね」とだけ返した。

 医者はカルテの上に、近代アートのような、子どもの絵のような、はたまた糸くずのような暗号を形成していたペンを置くと、あたしの顔をじっと見ながら話し始める。


「今見た感じ、ほとんど完成はしていますが眼としてはまだ不完全な状態ですね。ただ話を聞いた限りだととても進行速度が早いみたいなので、あと数日もすれば完全な状態になると思います」


 医者の顔は深刻だった。でもあたしはその言葉が頭の表面を掠っていくような感覚がして、理解することができなかった。


「十五歳以上の場合、平均でこの状態になるまで一ヶ月程度はかかると言われています。だから普通は眼になる前に取り除くんです」


ここで医者は後に控えていた看護婦に何か指示を出す。内容はよくわからなかった。


「子どもの場合、一週間という事例は確かにありましたが、大人の場合は非常にまれですね」


「へえ。あの、これって取れるんですか?」


あたしが訊く。医者はひどく神妙な顔をした。


「ここまで完成していると難しいですね」


ではどうするのだと、あたしは食い気味に返す。


「この病気はここ最近確認されたものですし、治療できる専門医も、症例も少なく、今はなんとも」


医者の返事はどうにも歯切れが悪かった。


「一応、大学病院に紹介状を書いておきます。すぐに行けるように手配をしますので、早めに行ってください。進行もかなり早いようですし」


つまりは、この医者にとって今のあたしは「お手上げ状態」らしい。その後も医者は何かいろいろと説明していたが、あたしの頭には何一つ入ってこなかった。

 あたしは医者の話が全て水みたいに思えた。言葉は残さず全部あたしのところまで届いているのに、皮膚にあたると全て跳ね返って足元にぽたぽたと落ちてしまう。多分あたしは、無意識に医者の言葉を遮断しているのだ。。あたしがこの病気ののことを受け入れた瞬間、あたしがこれまでとは変わってしまう、そんな気がした。

 あたしは、ひたすらに「はい」「そうですか」「そうなんですね」と相槌を打つ。医者はその相槌に合わせて説明を続ける。そんな無意味なキャッチボールが続く。途中で若い看護師がまた「大丈夫ですか?」と訊いてきたが、その時だけは「どうでしょうね」と曖昧な言葉を返した。だって体のことを訊いているのなら見ての通り大丈夫じゃないし、気持ちの問題を訊いているのだとしたら判断できるほど頭が動いていないし、もしも理解しているかどうかの確認をしているのなら、あたし何一つわかっていないのだ。だからこんな「はい」や「いいえ」じゃ答えられない「大丈夫ですか?」という質問には、曖昧に返事をする他なかった。

 どのくらい話を聞いていただろうか。あたしが何一つ理解できないまま説明は終って、帰っていいと告げられる。立ちあがろうとしたその時、不意に左手についた自分の目と目があった。病名を与えられたそれは今朝よりもくっきりとそこに存在していて、その瞬間に先程までぽたぽたと足元に落ちていた医者の言葉が頭の中に吸い込まれていく。

 あたしは急いで目を逸らす。そのまま左手を自分が着ているパーカーのポケットに突っ込んで、空いた右手で鞄を手に取って診察室を出る。その時あの若い看護師が「お大事になさってください」と声をかけてきたが、正直何を「大事にするのか」と思えてならなかった。

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