第十六話 見えるものと見えないもの

 ベッドに突っ伏して、開けた窓のそばで揺れる白いカーテンを眺めていた。道路に面しているせいで、部屋の中にはタイヤが地面を転がる音とエンジンの音が行き交っている。その音の合間を縫うみたいに、時計の針がカチカチと静かに音を鳴らした。入り込む風は冷たくて、投げ出した足が酷く冷える。左手はいつも通りなのに、ピアスを握った右手だけが熱を持っていた。普段から畳みもしないから、あの日のまま丸まっていた毛布に適当に包まって膝を抱える。これ以上は考えるのが面倒だった。もうこのまま、時が過ぎてくれないかと思った。この間に、この差別ばかりの世界が変わってくれないかと願った。でもそんなことは無理だとわかっていた。もう全部、どうだっていい。


「…はは」


 何故だか笑えた。半分泣いてるみたいに、笑った。

 笑えたから、笑いながら顔を洗う。左手も丁寧に洗った。メイク道具を出してきて、久しぶりにきちんとメイクを施した。なんだか面白くなってきて、左手にもアイメイクを施した。まつ毛の美容液もつけてやったし、お気に入りのブラウンのシャドウを重ねてやった。手の甲にビューラーを当てるのは難しかったが、案外うまくいった。


「可愛いじゃん」


 左手に向かって言いながら、馬鹿みたいに笑う。面倒だなって思ったら、全部がどうでも良くなった。ついさきっき郵便物を運んできた大家の女の顔を思い出す。申し訳ないって顔で、丁寧に言えば何でも許されるって思っていそうな人だと思った。だからこんな部屋、すぐにでも出て行ってやる。

 去年買った、お気に入りのワンピースを着た。コートを羽織って、施設に行く前に買っていたブーツを履いた。電車に乗って、新幹線に乗った。下りの新幹線の方が待たずに乗れそうだったから、下りの、それも一番先まで乗せてくれる切符を買った。自由席だったけど車内は程よく空いていて、車窓を眺めながらビールも飲んだ。

 知らない景色がものすごいスピードで後ろに流れていくのをぼうっと見送る。冷えた窓に額を預けたらファンデーションの跡が窓について慌てて拭った。徐々に日を落とし始めた車窓が、明るい車内を反射する。化粧で着飾ったあたしの顔が、過ぎていく景色に重なった。同じく着飾った左手は変わらず袖の下に隠れているのに。

 速度を落とした新幹線がゆっくりと夕焼を見つめる駅に停まって、そこから乗り込んできたお婆さんがあたしの隣にやってきた。「お隣いいかしら?」と微笑む顔はしわくちゃなのにどこか綺麗で可愛らしくて、あたしはそのつぶらな瞳を見ながら「はい」と答えた。「楽しそうね、一人旅?」と尋ねられれば、あたしは「はい。自分探しの」と作り物の笑顔で答える。本当は『お部屋探しの旅』であるのだけど、まあ、それはほんの誤差みたいなものだと思う。

 終点まで二人横並びに腰を下ろしていた。去り際に「楽しんで」と微笑れれば「はい」と答えた。

 降り立った駅のホームは明るく照らされていたが、その先に覗いた空は濃紺の夜空だった。あたしは適当に空いていそうなビジネスホテルに入って、真っ白に乾いたベッドに飛び込む。スプリングはギッと短く呻き声をあげたが、あたしの体を柔く包んだ。着たままのコートのポケットに手を差し入れると、硬い感触が指先に当たった。桜の形の小さなピアスだ。あたしは右手でそれを握って、左手を顔の前に掲げた。袖の中にしまっていた瞼は、もう随分とメイクがよれてしまっている。


「残念。可愛かったのに」


 何が残念なのか、あたしにも分からくなっていたが、一応呟いた。両目を閉じて、今度は左手の目の瞼を開く。


「こっちもよれてる。残念」


 ずっと新幹線に乗っていただけだったのに、顔のメイクも崩れてしまった。さっきコンビニで買ったメイク落としシートで拭い落とす。左手の目はまるで特殊メイクみたいなのに、拭っても拭っても、落ちるのはあたしが塗りつけたメイクだけだった。


「残念」

 

 そう口にする。少し効きすぎる空調の音がゴウンとなった。真っ白なシーツに寝そべって、無機質な部屋を眺めるのはあの山の中を思い出させる。違うのは窓の外に感じる車や電車の音たちで、それはあたしの心を凍らせた。一歩でも外に出れば、行き交う視線があたしの左手を捉えそうで怯える。外を緊急車両がサイレンを鳴らして過ぎ去った。ドップラー効果で歪みながら小さくなるその音を聴きながら、罪を犯して逃げる犯人はこんな気持ちなのだろうかと、想像してみる。


「でもあたし、何もやってないじゃん」


 言ってしまったら最後だった。つうと一筋、涙が出るから笑ってやった。


「こんな見た目で、生きてることが悪いって言うの?」


 息が苦しかった。だから寝返りを打ってうつ伏せになる。気持ちが苦しいのではなくて、こんな体勢だから苦しいんだと思うことにした。

 顔を枕に顔を押し付けて息苦しさを頭で感じる。どこに行っても地獄なら、もう何処にも行かずに全部終わりにしようと思った。つかなかった決心が漸くついた。


 あたしの人生はもうおしまい。明日で最後。

 部屋に見られて困るものなんてなかったはずだし、冷蔵庫で萎びた野菜は誰かがきっと片付けるだろう。コンビニで買ったものは、食べてくればよかった。そういえば日用品も一緒に冷蔵庫に入れてあるけど、片付ける人は驚くだろうか。

 それも全て、どうでもいいのだ。今夜が最後。明日はせめて、綺麗な景色でも観に行こう。

 今夜はそのまま眠りについた。

 

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