第十七話 諦めと決意

 外から入り込む電車の音で目が覚めた。ベッドの脇に取り付けられた小さなアナログ時計が指し示す時刻は午前八時の少し前で、白い遮光カーテンのみを引いた窓からは冬らしく澄んだ陽光が入り込んでいる。

 昨夜、苦しいようにとうつ伏せのまま眠った体は、右側の白い壁を向いていた。少し効きすぎるくらいの空調によって温められた部屋の中で、あたしは蹴り上げた布団を抱きながら心地よさそうに身を横たえている。着たままだったはずのコートは床の上で丸まっていて、まだ眠気に霞む頭は昨夜の夢の面影を辿った。なんだか美味しいものを頬張る夢を見ていた気がして、思考の重さに押しつぶされて不自由になった肉体も無意識の中ならばどこまでも自由なのだと知った。

 あたしは抱えていた布団を手放すと、大袈裟に伸びをする。無理やりにでも動かしてやらないと、目が覚めと共に意識を取り戻した体は途端に不自由になってしまいそうな気がしたからだ。するとあたしの動きに合わせるように衣擦れの音が静かに響いて、背骨がパキリと音を立てた。それから少し遅れて、腹がぐうと情けない声を上げる。そういえば昨日からまともに食べてない。

 あたしは生理的欲求もまた意識とは無関係に体を突き動かすのだと、他人ごとのように思いながら寝返りをうつと天井を見つめた。そこは真っ白なだけで、何もない。その天井を見つめながら、何か美味しいものを食べよう、人生最後の朝食にふさわしい何かを探さなくては、今日はもうやることの全てが人生最後だからと、そう思った。誰も知らない人生の終焉という未知に対する恐怖は未だにあったが、終わらせることには不思議と後悔はなかった。でも終わりの瞬間に心残りがあるのはきっと嫌だと、そう思う。

 あたしは天井に向けた顔の前に右手を掲げた。なんの変哲もない右手が見えた。ぼうっと眺めていると、親の付け根にある小さなホタロは母も同じだったと思い出した。でもなせか、父の手は思い出せない。でもそれもそうなのだ。

 隣に並べるように左手も掲げた。閉じた瞼がそこにはあって、相も変わらず奇妙なままだった。父にも、母にも、顔も知らない他人の手にも存在しないはずの目が、今日までのあたしを苦しめた。だけどそれも、今日でおわりだ。

 この瞼を開けば奇妙な目が人生の終わりを決めたあたしの顔を覗くだろう。その表情がどんなものか見てみたいのに、あたしがそうしないのはきっと、見てしまえばこの決心が揺らぐとわかっているからだ。

 あたしは両手をベッドに落とすと、今度は「よいしょ」と小さくつぶやきなから両足を天井に向かって持ち上げた。そのまま勢いをつけて振り下ろすと、その衝撃を使って体を起こす。立ち上がって、シャワーを浴びて、身支度を整える。どうしようかと少し迷った後で、昨日と同じように左手にもアイメイクを施した。相変わらず出来栄えには満足できたのにため息が出た。その手でカバンを掴んで部屋を後にする。量はさして多くない。そもそも引っ越し先を探して家を飛び出しただけなのだ。あの時はまだ未来を見ていたし、これが人生最後の旅になるなんて思ってもいなかった。だから鞄には必要最低限のものしか入っていないし、家にはまだまだ色々なものが残されている。遺書くらい準備した方がいいのだろうか、部屋とか携帯電話とか諸々の解約も済ませてからの方がいいのだろうかとか、僅かばかり気がかりなことは残っているがことを成すなら早い方が良いに決まっていた。

 お金の余裕がまだあるうちに、やりたいことをして、食べたいものを食べて、出来る限りの後悔を拭い去ってからこの生から手を放してしまいたい。

 あたしは“終わり” に関わること以外の雑念を振り払うように頭を振って歩き出した。ホテルの外は思いのほか冷たくて、両手をコートのポケットにしまって先へと進む。指先にはひやりと冷たいピアスがあたった。

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