第十八話 意識と無意識

 歩き出してはみたのの、あたしは途方に暮れていた。どこに向かえばいいのかわからない。自分が何をしたいのか、何を食べたいのか、自由にやりたいことをやるというのがこうも難しいとは正直思いもしなかった。とりあえず空腹を自覚した脳が食事を求めていることはわかっているが、知らない土地では美味しい店がどこにあるのかもわからないし、この左手を隠しながら怪しまれずに食事ができる店を思いつかなかった。カバンに入ったスマートフォンの電源を入れて検索エンジンを起動すればすぐに済むのかもしれないが、それは何となくしたくない。

 手は人間の第二の頭脳であるらしい。だけどあたしにとってはその手に保持したスマートフォンが第二の頭脳のようだったと思う。計算をするのも英語を理解しようとするのも昔は自分でやってきたはずだったのに、大人になってからは専らスマートフォンに頼り切りだ。自分の予定すらもリマインダーにセットするだけで覚える努力をしなくなったし、思い出せないことがあれば全て調べた。まるでスマートフォンは便利な外付けの頭脳みたいで、いつの間にか自分の頭脳を使うことを減らしてしまった。他人との繋がりを断ち切りたくてスマートフォンの電源を切ったら、途端に何もできなくなる。私の人間関係がこうも希薄で、私という人間自体がこうも不佞だとは思わなかった。

 ビルとビル、人と人の間を風が抜けていく。冷たくて思わず肩をすくめた。すれ違う人もそうしている。スーツを纏った人も多くて、今日は平日のどこかなんだとそう思った。仕事も無くて、テレビも見なくて、スマートフォンを手放してしまうと、徐々に日付や時間の感覚を失っていくらしい。なんだか自分を卑下する感情が腹の底から沸き立ちそうになるのを感じてあたしは唾をのみ込んだ。

 それから前を行くスーツ姿の男に続いてコンビニに暖い込まれていく。砂糖がたっぷりかかったドーナツ一つと手袋を買った。異国から来たらしい若い男の店員が「ありがとうございます」とカタコトに発音した。コンビニの前でドーナツを咀嚼しながら左手に手袋をつけたあたしがため息を溢したのは、今朝施したこの左手のアイメイクが崩れるのが嫌だからだと思いたかった。

 やりたいこと、食べたいものを考えるのも面倒になって、とりあえずどこかに行こうと思った。もはや自分の体に意思があるのかも怪しく思える。握りしめていたゴミを捨てて、唇の端に付いた砂糖をなめとる。自嘲の笑みが浮かぶのをそのままに、あたしはひとまず駅に向かった。

 券売機の前に立ったあたしは財布の小銭を全部取り出して、入れられる小銭を全て入れた。財布の中には数枚の紙幣と七円が残って、券売機には九百五十円が投入されていた。あたしはそのお金を一枚の切符に変える。この切符が連れて行ってくれる先に何があるのかは知りもしない。

 券売機の上に大きく描かれた路線図を見つめながら、この切符で行ける駅を探す。いくつかあったが最初に見っけた駅に行くことにした。当たり前だけれど知らない駅で、向かう電車の車内は空いていた。座席に腰かけて、外を眺める。空調は効いていたが手袋は勿論外さない。電車は田舎の方に向かうようで、電車は緑とまばらな家の横を揺れながら走った。各駅停車の普通電車は、駅を迎えるたびに停車と発車を繰り返す。ドーナツだけでは物足りなかったのか、腹がまた小さく声を上げた。手袋をつけた左手でその腹をなだめながら、視線はずっと車窓に送った。やや斜めから差す陽光を、茂った常緑樹が遮るせいで日影が多い。若葉の青々しさの代わりに深緑に染まった視界はどこか寂しさがあって、気分が沈みかける。それでもあたしは目を逸らさなかった。多分それに理由はない。

 施設暮らしでうまくなったのは新しい目の使い方だけではなかったらしい。時間の潰し方も随分とうまくなった。誰かと話さなくても、本を読まなくても、スマートフォンが無くても、何もしなくてもただ無心で時間をやり過ごせる。停車と発進を繰り返す普通電車の中で、今度はそっと目を閉じた。九百五十円の駅があと何分後かはわからないけど、続く揺れが心地よい。あたしの意識が、ゆるゆると肉体から離れていくのを感じていた。


──ゴトンッ


 しかしすぐになった鈍い音が、あたしの意識をまた体に引き戻した。驚きのあまり、一瞬すべての目が開く。


「あ、すみません」


続けて左隣から女性の声がした。田舎に向かう各駅停車の車内は人がまばらで、声を発した女性はあたしの左に一人分の空間を開けて腰かけていた。なんのことかと一瞬思ったあたしの左のつま先の前には、スマートフォンが転がっている。その画面に表示された笑顔の男女の写真から、すくにその持ち主がその女性だと気が付いた。あたしは咄嗟に左手を差し伸べる。それからすぐにハッとして手を引いた。手袋をしていてよかったと、思わず安緒の息が漏れる。


「すみません。スマホ、落としちゃって」


左隣から手を伸ばした女性は、そう言いながらスマートフォンをい上げた。あたしも「すみません」と消え入りそうな声で言う。奇妙な左手で触れようとしたこと、驚きのあまり捨ってあげることができなかったこと、色々なことを心の中で謝っていた。


「すみません」


 あたしの顔を見ながら一度ぺこりと頭を下げた女性の顔には申し訳なさそうな笑顔が浮かんでいた。だがその顔に、あたしは警告を受けた気分だった。


 誰の前でも気を抜くな、と。


 車内の疎な人影が、あたしを見ている気がした。

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