第十九話 停滞と進行

 緩やかに速度を落として、電車は駅のホームに停車した。アナウンスされた駅の名前はあたしが思っていた読み方とは少し違っていたが、目的の駅だった。手袋に収めた手は、いつのまにか汗ばんでいる。それでもぐいと口を引っ張って左手の手袋だけは絶対に外れないようにと付け直した。薄くて小さな切符を扱うために右手の手袋を外した時、チリと人差し指の先が痛んで、爪の横に生まれたささくれに気がついた。ささくれは親不孝とも言うらしい。そう思い出したら胸の奥底がチクリと応えた。こんなことになっても、一言も連絡を寄越さないあたしは確かに「親不孝者」なのかもしれない。逃げるようにスマートフォンの電源を切ったままのあたしは、あの人の気持ちを何一つ考えられていないのかもしれない。だけどこんなあたしを作ったのは紛れもなくあの人自身で、あたしがこうなったのも必然だと思えてならない。

 あたしのこの手袋をしたままの左手じゃ、この小さく剥けた皮膚を引きちぎることは出来そうにない。だからあたしは無意識に親指の腹で人差し指のささくれを撫でる。乾燥して鋭くなった皮膚が親指の腹を刺激して僅かに痛かった。撫でられた人差し指も少し痛い。鋭く尖ったささくれを持ったお母さん指が、近づくお父さん指を突き放そうとする。そんなあたしの右手が、どこか両親のように思えた。

 いや、考えすぎか。ただの妄想だ。

 あたしは切符を右手に握って視線が絡まる電車の中を後にした。冷たい空気があたしを包んだ。


 初めて降り立った駅は小さいけど綺麗だった。ホームの目前に建つ倉庫の壁には、子どもが描いたらしい絵が大きくプリントされている。カラフルに描かれた人や動物がこちらを見ていて、その表情は全て三本の曲線で拙い幸福が溢れていた。あたしはそこから目を背けて、改札を抜ける。たった一つの改札の脇にこじんまりとした駅員室があって、中に気の良さそうな駅員の青年がいる。改札の外に開けた景色を見つめながら、未だに見つからない目的地を探した。風が吹いて、肩をすくめる。

 駅の外で小さくカーブを描いたロータリーでは、タクシーを停めた運転手が二人談笑している。改札外の待合室はガラス張りで中がよく見えた。老いた男がベンチに腰掛けこっくりこっくりと船を漕いでいて、木の板で作られたその立派なベンチには寄贈の焼印が押されている。他のベンチには老夫婦が腰掛けていて、暖かそうだった。駐輪場には自転車が整列していて、取り囲むように並んだ建物の背は低い。人の声や車の声は少なくて、代わりに鳥の声がした。ホームが騒がしくなったと思ったら、電車が一本停まってまた出て行った。大した人の流れは生まれない。田舎と言うには少し栄えてもいるような、だけど静かな町だった。


「ねえ」


ふと声がした。あたしのすぐ近くからした声に、思わずあたしは肩を震わせる。それからゆっくりと振り向いた。小綺麗な服を着た小さな老女があたしを見ていた。すると女はまた「ねえ」と言う。あたしは震える声で「はい」と言った。


「あなた、誰か待っとると? そこは冷えるやろ。待合室に入ったら?」


女は微笑んだ。あたしは「え?」と聞き返す。


「そこでずっと寒そうにしとるから心配になって声をかけたけど、余計なお世話やったかね? ごめんね」


今度はすこし困ったみたいに笑った。


「あ、いえ、大丈夫です」


そう言いながら、あたしはへらりと笑って見せた。左手はもう無意識で、ポケットに向かう。


「あそこ、年寄りが多くて若者が入りにくいってよく言うとよ。でも遠慮せんで、入らんねよ」


聞き馴染みがあるような、ないような、そんな方言混じりに女は話した。


「あの、すみません、ありがとうございます」

「こっちこそごめんね。お節介やったね」

「ああ、いえ。じゃあ、わたし、あそこで待ちます」


ニコニコとした笑顔は優しいのに、なんだか居心地が悪い。あたしはそう言うと逃げるように待合室の扉を開けた。むわっとした暖気が肌を撫でる。ほう、とどこか気の抜けたような息が漏れて、寒さに強張っていた肩の力が僅かに弛んだ。

 待合室に流れる空気は穏やかで、老夫婦の会話と観光案内のモニターの音声が静かに流れていた。夫が「なあ、電車は何時だったか?」と訊く。「十五分後」と妻は答えた。「もうあっちに行くか?」と夫がホームを顎で指す。すると妻は「まだ早い」と夫の膝を撫でながら笑った。旅行にでも行くのだろうかと、考えてみる。優しい空気を纏っていた。あたしはどこに行こうかとまた考える。観光案内のモニターから「自然豊かな山あいの村」と音声が聞こえた。モニターには美しい田畑と木々の映像が流れていた。そうだ、ここに行こうと、なんとなくそう決めた。

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