第二十六話 春と秋

 「大丈夫、大丈夫」と温かな手があたしの背を撫でる。人の温かさや柔らかさを感じるのは随分と久しぶりで、なんだか胸がほっとした。優しい声と手に促されて近くのベンチに腰掛ければ、既に腰かけていた英彦に「そげん泣きなさんな」とポツリと言われてまた泣いた。その声は別に怒ってなどはいなくて、ただただ宥めるようにそう言われるから泣けてしまう。

 左手の甲からぼろぼろと涙を溢すのは不格好なのに、あたしはひたすら泣いていた。


「少し気が抜けた? そういう時に出た涙はもうどうしたって止まらんから、ゆっくり落ち着けば良かよ」


 ああもう、情けない。情けなくて情けなくて仕方がない。なのに涙を止めるられない。

 あたしもはそうしてしばらく泣いた。


「どう? 落ち着いた?」


「…はい。すみません」


 あたしはどのくらい泣いていただろうか。臉も鼻も妙な熱を持っている。左手の臉も腫れぼったくて、より一層不細工だ。


「謝らんでよか。とりあえずお腹が空いたやろう? 食べるもの買ってくるけん、英彦さんと待っとって」


未だに奇妙なままのあたしの体に向かって圭子は言うと、軽い足取りで店の方へと歩いて行った。ベンチの上は英彦とあたしの二人になって、風の静けさと冷たさが腫れた臉を心地よく撫でていく。


「落ち着いた?」


圭子と同じ質問を、英彦も静かな口調であたしに投げた。


「はい」

「僕には何も見えんけど、朱里さんの目はどこにあると?」

「左手です。左の手の甲」

「へえ」


そう答える英彦はしわしわの自分の左手を右手でそっと撫でる。何を考えながら撫でているかはわからないが、その声色からあたしに対する嫌悪感はなさそうで良かったと少しだけ安心した。

 圭子の声が春だとするなら、英彦の声はまるで秋だ。静かで一見冷たいようにも感じるのに、どこか優しい色がある。凪いだ海のように穏やかで、心地いい冷たさと爽やかさで紅葉を揺らす風のよう。


「どんな目か訊いてもよか?」


そんな声があたしに訊いた。訊かれたから、まじまじと見たくもないものを見て描写する。


「…不格好で、奇妙で、気持悪い。例えるならまるで…化け物です」


すると英彦は「へえ」とまた答えた。しわしわの右手が相も変わらずしわしわの左手を無でていて、その「へえ」が何を考えているのか見当もつかない。


「気持悪かとは、普通はそこに無かものがそこにあるから?」


「…そうですね。だって普通の人はないはずのものが、当たり前みたいにそこに居座ってたら気持ち悪いです。それに、それがきょろきょろ世界を見てるんだから、他の人が気味悪がるのも嫌悪感を抱くのも無理ないです…」


「そうか…」


 英彦の返す言葉は短かった。何かを頭の中で考えているのか、口から出る言葉はただポトリと落ちるみたいだった。


「もしも…僕の目が、今、初めて見えるようになったとして、僕が朱理さんの目を見ても、気持ち悪いと思うやろうか?」


「…それは、どうでしょうね」


 この手で何かを見つめる練習はしてきたが、これまでこの手を観察したことはなかったような気がする。普通というフィルターを取り除いて見てみたら、この手はどのように見えるのだろうか。あたしはじいっと見つめてみたが、やはり奇妙な物だった。どうしたって見慣れない。ただその目はあたしの両目とよく似ている。小さくはなくて、二重だけどどちらかと言えば奥二重。まつ毛は長いが下向きで、丸よりも少し切長に近い。慣れたとはいえ二つの視点で物を見続けるのは気持ちのいいことではなくて、あたしはそこまで観察をすると左手の目を閉じた。長いまつ毛が手の甲を覆う。


「目だけの形を見たら、そこまで不恰好ではないのかもしれませんね」


だからあたしはそう言った。そんなつもりはなかったけれど、少し自虐的に聞こえた気がする。英彦はやっぱり「そうか」とだけ言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

EYEs. 石橋めい @May-you

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ