第41話 言われて初めて気づく変化



 『奥様』の帰宅は、すぐに屋敷内に広まった。

 最初に私に気がついたのは、表の門から一人扉を押し開いて入ってきた私を見つけた執事だ。一瞬驚いた顔をしたが、流石は訓練された伯爵家の執事と言うべきか。すぐに平静を取り戻す。


「お帰りなさいませ、奥様。すぐにお部屋に向かわれますか?」


 使用人同然に働いていた私には「奥様」と話しかける事こそなかった彼だけれど、今の私には何故か畏まってお辞儀をしてくる。

 不思議だなとは思いつつも、私は「いいえ」と言葉を返した。


「応接室に。それとザイスドート様を呼んできてください」


 この屋敷の奥様としての私の部屋は、もう一年も前にレイチェルさんに取られてしまった。

 だから、彼が言う「お部屋」とは、今私たちが住んでいるあの日の光が差し込む住処よりも一層暗くくたびれた一室だ。


 私は別に、あそこに帰ってきたつもりはない。悪感情も何も無く、当然のようにそう思える自分自身に「あぁもうここは本当に私の居場所ではないのだな」と思った。



 畏まりましたと一礼して、彼は諸々の用意に行く。代わりに私の案内役としてつけられたのは、よく見知った顔のメイドだ。


「どうぞ、奥様」

「ありがとう」


 彼女の背中について、今はもう懐かしささえ感じる屋敷内を歩く。

 彼女は、嫁いで以降ずっと私の側付きをしていたメイドだ。レイチェルさんから「外に出ない、仕事もしない、役に立たない。そんな貴女には不要でしょう?」という言葉一つで部屋と共に取り上げられたのが彼女だ。

 しかし側付きを解任された後も彼女は、何かと私を気にしてくれた。

 頼む私に掃除などの諸々のやり方を教えてくれたのも彼女だ。


 仕事のやり方を覚えてからは「ザイスドート様のための仕事だから」、「貴女がレイチェルさんに目を付けられるといけないから」と、彼女をやんわりと突き放してしまったけれど。

 それでも本当に最後の最後まで心配してくれていたのは、彼女の目や心配そうな表情を見ればすぐに分かった。


 今だから思える。彼女のその優しさを、見ないふりをしたのは私だ。

 

 彼女の優しさを受け取れるだけの心の余裕が、あの時の私にはなかった。けれどあの時、たしかに彼女の優しさにたくさん支えられていたのだと、今になってようやく気がつく。


 だから、案内をしてくれる彼女からチラリチラリと送られる心配そうな視線に「変わらないのね」と思わず笑った。

 基本的に身分の低い者は高い者には話を振ることができない。世話をする上で必要な事や私室であれば例外だけれど、今は廊下だし、おそらく彼女がしたいのは仕事の話ではないのだろう。

 だから見かねて口を開く。


「私が居ない間、屋敷は問題ありませんでしたか?」


 彼女に振ったのは、数少ない外出の後に必ず聞いていた雑談のための取っ掛かり。私と彼女の間では、もっぱら世間話の許可のような言葉だ。

 私からのアクションに、彼女は少し嬉しそうな表情になった。しかしすぐに、何故か表情を暗くする。


「はい、全て滞りなく」


 コロコロと変わる表情は、まるでかけ引きを知らない。

 あぁ、きっとあまりうまくいってはいないのだな。そう直感するには十分な反応だ。


 もしかしたらマイゼルが荒れてるのだろうか? それともレイチェルさんが『私の代わり』を探して? ザイスドート様が使用人に何かをするとは思えないけれど。

 そのような事を考えていると「奥様は」と、言葉が返ってくる。


「奥様は、お元気でしたか?」

「――えぇ、とても楽しく過ごしていました」


 これまでずっと自分の中の威厳をかき集めていた私の作り笑いが、これまでを思い出して綻んだ。すると前から安どのため息のような「よかった」という声がした。


「安心しました。今の奥様を見れば愚問のような気もしたのですが、どうしても気がかりだったものですから」

「愚問?」

「えぇ、見違えました。段違いに血色もよく、全体的に少しふっくらとされました。それに何より以前よりも、堂々とされて威厳もおありで」

「……そうかしら?」


 まさかの賛辞に少し驚く。

 しかし、たまたますぐ近くの窓を見て「そうかもしれないわね」と思った。


 昼間の庭園が見える窓には、うっすらと私の姿が移り込んでいた。

 棄てられたあの日に見た、痩せこけた自分はもういない。姿勢よく背筋を伸ばし胸を張った、淡いグリーンの小奇麗なワンピースを着た私がそこには居た。


 外出を知らず栄養も乏しかったせいで病的な白さを誇っていた肌は、少し日々焼けたのだろうか。健康的な色になっている。

 貴族令嬢の肌は白いのが至高とされているけれど、今の自分の方が好きだ。そう思えたのは、もしかしたら窓越しに目が合った自分の瞳にあの日の虚ろさを感じなかったからかもしれない。


 ――彼らのあの強い瞳にはまだ遠いかもしれないけれど、少しは近づけた気がする。

 そう思うだけで嬉しくなって、窓の向こうの私に微笑んだ。



 応接間に通され、ソファーに座った。淹れられる紅茶の香りに、この感じも久しぶりだなと思う。

 それでも体で覚えた事は、意外と忘れていないものだ。目の前に出されたティーカップを、音を立てずにソーサーから持ち上げ、自然な手つきで口元へと運ぶ。

 と、その時だ。


「あれだけザイスドート様にこっぴどく棄てられたというのに、よくもまぁ戻ってこれたものねぇ?」


 開かれた扉の方から、高飛車な声がかけられた。

 見れば、案の定というべきか。公式の場でもないというのに、沢山のフリルと宝石で着飾った朱色のドレスを着た女性の姿がある。

 

 蔑むような彼女の瞳には、大いに既視感がある。

 が、マイゼルの時のように恐怖に固まったりはしない。一瞬おじけづいたものの、人知れず口の端を引き結び、笑みを作ってからカップを口元から離す。


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