第45話 一方その頃 ~フィーリアを喪った伯爵家~



 あのフィーリアを屋敷から追い出す事。それが私、レイチェル・ドゥルズが目指す所だった。

 実際にその通りになって数日、私はザイスドート様から愛され、この家ただ一人の夫人としてこの屋敷を取り仕切る。その筈だったのに。

 まるで私など見えていないかのようなザイスドート様の腑抜けように、思わず舌打ちをしたくなった。



 彼の異変に気がついたのは、あの女が彼に婚約破棄契約の書類を書かせた日の夜だ。願いが叶った喜びで鼻歌交じりに彼の部屋を訪れた時、いつもは必ず閉まっている私室への扉が少し開いている事に気がついた。

 こういう所にはきちっとしていると思ったけれど意外とこういう所もあるのね、と思いながら一応礼儀として扉をノックしようとした時の事だった。


「フィーリアはもう、私の事など忘れてしまったのか……」


 漏れ聞こえてきた彼の呟きに、思わずピタリと手を止める。


 まるで彼女に未練があるかのような物言いだ。

 いえしかし、私は上手くやっていた。彼はすでに私に気持ちを傾けている。でなければ、数々の私の『お願い』を聞いたりはしなかった筈だ。

 そう思う気持ちと、突如として沸き上がった疑惑の間で、私は一瞬戸惑った。


「私なしでは生きていけない。私の言葉には何事にも『はい』と従い、私のために尽くしていたあのフィーリアが、私の事を、婚姻契約を『足枷』などと思っている筈がない。筈がないのだ、それなのに……」


 どうやら今日はお酒を沢山飲んでいるのだろう。少しろれつが回らない様子で語る彼は、自身が至高を垂れ流しにしている自覚がないのかもしれない。そう思えるほどに、うわごとを口にしている。

 

 まるで未練があるような、ではない。未練があると確信出来るような言葉の羅列に、歯噛みする。


 私が残った。私が今やこの屋敷のただ一人の婦人だ。それなのに、彼は私ではなく去った者フィーリアの方を想うのか。


 私がフィーリアに負けた事を、まざまさと突き付けられたも同然だった。

 腹が立つなどという言葉では片付けられない感情の奔流が、私の心を支配した。

 何の憂いもなく訪れる筈だったザイスドート様の部屋には、結局その日、入るようなことなかった。私にできたのは、自室に戻り、布団をかぶって、周りの誰にも気づかれずに屈辱に打ち震える事だけだった。


 翌日以降は、それらの事を全て見ていなかったかのように振る舞った。

 ザイスドート様も、元々表に出る感情の乏しい人だから、基本的にはダメージを悟らせない。しかし私には分かる。

 彼はこうして私たちだけの時には、決まってどこかに想いを馳せる。それがどこなのかは、あの日を知っている私にとっては愚問だ。


 私だって、もちろん何もしなかったわけではない。

 たとえフィーリアに心を残していたとしても、今彼の側にいるのは私だ。このような不名誉な結果をそのまま残しておくことは私のプライドが許さない。


 ザイスドート様の中のあの女など、すぐにでも消してあげるわ。私はすぐに思考をそう転換させた。

 実際に、そのくらいの事は訳ないと思っていた。

 しかしふたを開ければ、あれからもう一か月弱。彼は依然としてあの日を引きづっている。


 私がどんなに彼に話を振ったとしても、どれだけ気遣いをしたとしても、どれだけ社交で役に立っても、彼はまったく変わってくれない。

 それがとても腹立たしい。


「何がそんなに不満なのです」


 ついに我慢の限界が来た。相変わらず上の空の彼に、腕組みをして不機嫌さを隠さずにまっすぐとそう尋ねる。


 彼はずっと、私を怒らせまいとしてきた。私の実家の、そして私自身の有用性を買っていた。だから私の言葉を今まで無視した事はなかったし、私の意向にも沿ってきた。

 その私が、尋問よろしく強い口調で彼に聞いたのだ。きっと今までのように私を悪いようにはしない。そんな確信がまずあった。


 だからこれで、彼は自分の態度が私を不快にしていると気がついて、改善するに違いない。そう信じて疑わなかった。

 なのに、ゆるりと私に目の焦点を合わせた彼は言ったのだ。


「君に不満などはない。そもそも埋められる筈もない。彼女が居た場所は君になど」


 その物言いに、頭にカッと血が上った。


「私があの女に及ばないと言いたいのですか!」


 聞かなければよかった事を聞いてしまった。そうと気がついたのは、彼が次の言葉を放ってきた後の事だ。


「フィーリアに及ばない事など、当たり前だ。そもそも君に、彼女の代わりを期待してなどいない。彼女は俺の心の拠り所、俺にとっては唯一無二だ」


 私はゆっくりと怒りに目を剥いた。

 

 上手くやれていると思っていた。あの女の居場所を私のものにすると決めて、そう出来た――少なくともそのレールには乗っている確信していたのに、そもそも最初から比較の対象にすらなっていなかったですって……?


 当たり前のように言われた「期待などしていない」という言葉は、私にそう告げているように聞こえた。


 あんな女如きに負ける筈など無いという気持ちと、目の前にある事実。

 憤りと羞恥が入り混じり、最早言葉になどならない。


 ガシャァン。


 出口を失った感情を抱えた私は、気がつけば目の前のテーブルのものを手ですべて払い落してしまっていた。

 けたたましい音が室内に響くが、それでも目の前の男は顔色を変えない。

 それがまた、まるで機嫌を取る価値さえないと言われているかのようで腹立たしかった。

 謝罪も言わずに強い足取りで部屋を後にした私を、彼は呼び止めもしなかった。



 こんな筈ではなかったのに、と心の中で繰り返す。

 苛立ちがつのる。しかし苛立ったところで状況は改善しない。


 最近は何故かあの女の息子も、私を遠巻きにしている。

 つい先日までは、あれほど私に褒めてもらおうとすり寄ってきていたというのに、最近は私に疑うような目を向ける。

 薄情なものだ。あの女の血を継いでいるだけあって、私を苛立たせるのも上手い。


 全てが上手くいっていない。

 それが誰のせいなのか、そんなものは明らかだ。


 この場から居なくなって尚私の邪魔をするなんて、忌々しい。

 

 

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