第43話 貴方『も』もう
彼女の言葉に怒りは感じない。
少し気になったのは彼女の「優しい貴方はこの女に温情を与えましたけれど」という言葉だ。
ここを追い出された時にはたしか「レイチェルさんの温情で」と言っていた筈だけど……とは思ったけれど、聞き返すほどの事ではない。彼の答えを、大人しくサインを待つ。
ザイスドート様も、私を率先して追い出した一人だ。むしろ喜んでサインをしてくれるだろう。
そして私は、貰った書類を提出し、ドゥルズ伯爵家から正式に籍を抜く。そうすればもう、ディーダやノインや他の人達を身分故の
ここまでおぜん立てをすればすべては滞りなく進むものだと、私は信じて疑わなかった。
が、レイチェルをやんわりと押しのけて、平坦な声でこんな事を言われる。
「それでお前は良いのか」
「え?」
「お前には帰る場所がないし、家族というものに特別な想いも抱いていただろう」
思わず疑問を返してしまったのは「何故わざわざそんな事を聞くのか」と思ったからだ。
この話を持ち出したのは、誰でもない私自身だ。私が納得していないのなら、そもそもこんな話をしに来るはずがない。
しかし、続いた彼の言葉を聞いて納得できた。優しい方だ。煩わしく思っている筈の相手にも心配してくださっている。
それに。
「覚えていて、くださったのですね……」
昔語った私の夢を、今も覚えてくれていたのが嬉しかった。
懐かしい、と目を細める。しかしもうそれは心配ないのだ。それを理由に私の籍を抜く事を躊躇してくださっているのなら、彼にはきちんと私の心情を話さねばならない。
「たしかに私は学生の頃から、将来は結婚をして、子を成し、家族で仲良く暮らしていく日々を夢見ていました。貴方とならばそれが為せると信じ、結婚し、子も成して。実際に結婚生活は穏やかで楽しい日々でした」
「ならば――」
「しかし私は、結婚で得られる幸せが全てではないと気がついたのです。結婚という契約がなくとも、他者を尊重していけば人との強いつながりが持てる。血がつながっていなくとも、家族にはなれる。この屋敷を出て、外で暮らして、私はそれらを知りました」
今思えば、私が『温かな家族の団欒』を夢見たのは、ただ単に人との強い繋がりを欲していたからなのかもしれない。
人の中に入っていく事が人一倍苦手な私だから、すぐ近くにあった強く絶対に壊れない繋がりの象徴として『両親のような優しい関係性』を、ただ一つの夢を叶える道筋だと信じ続けてきたのかもしれない。
「ザイスドート様に屋敷から追い出されて、最初は絶望しました。でも」
思い出せば、今でもあの時の心の痛みは淡く蘇る。しかしもう、それに呑まれる事はない。
今なら思える。
「あの時、否応なく外に出されてよかったと思っています。あんな事が無ければ私は、きっと自分から外に一歩踏み出そうとは思えなかったでしょうから」
屋敷の外に出た私は、やるべきことを失った。
結局外に出てからもディーダとノインとの生活に時間を使う事にはなったけれど、必要に迫られない掃除や洗濯や炊事などは、やってみれば楽しかった。
ノルマとしての仕事ではなく、二人のために私がしてあげられる事。それを自分で探して、やって、誰かのためになっていると実感できる事。砕いた気持ちの分だけ返ってくるものがある事。それらはすべて、私の中ではひどく劇的な変化だった。
「思えばずっと『誰かのため』を理由に自分で決める事から逃げてきたような気がします。自ら変化する事を怖がって、ザイスドート様にずっと甘えてきたのだと思います。それがきっと、今の貴方の心配に結びついているのでしょう。しかしもう大丈夫です。私は私が居たい場所を、必要としてくれる場所を、自分で選ぶ決意ができました」
彼がもう、重荷を下ろしてくれるように。そう思って伝えた言葉を、レイチェルさんが鼻で笑う。
「必要としてくれる場所? 何もできない貴女如きが、さもこちらを自分から棄てるかのような物言いで話の主導権なんて握って。そんな場所なんてどうせ見せかけなのに信じて、可哀想なフィーリアさん」
嘲笑う彼女の視線や否定がまったく怖くないのはきっと、私の心の在処がきちんと定まっているからなのだろう。
彼女の言葉ではもう、私の心は揺らがない。
「そもそもその服は何? 安い布に、簡素な作り。みっともないったらないわ」
「たしかにシンプルではありますが、綺麗な色と私のための刺繍。何よりも私のためにと選んで、プレゼントしてくれたものです。今まで着ていた物よりも軽くて動きやすいですし。あの子達のために家事をしたり仕事をするのには、最適な服ですよ」
「手だって、上級貴族の風上にも置けない荒れよう。とても苦労しているのでしょう? 日々の生活に」
「これでもここに居た時よりは、随分とマシになりました。何よりも家事は、私がしてあげたいと心から思ってしている事ですし」
手を見ながら、思わず微笑む。
むしろこの服も、荒れた手も、私にとっては勲章のようなものだ。
誇らしいものでこそあれど、バカにされるようなものではない。
動じない私に、レイチェルさんが苛立ちを隠さない様子ではをギリッと噛み締めている。ただ私は、彼女と同じ土俵に立たないというだけで別に彼女の何かを否定するつもりもない。
「ザイスドート様、レイチェルさんは貴方と肩を並べて貴方の夢を応援できるだけの力をお持ちです。貴方ももう、貴方自身のために邁進していいと思います。足枷はここで外すべきです」
私が家族に夢を見たように、彼は大成を夢見ていた。
私は夢を叶えてもらいながら、どうしても社交場になれる事ができず結局彼の夢の力にはなれなかった。その事を、私自身今でも申し訳なく思っている。
『婚姻契約』が縛っているのは、きっと私だけではない。
かつて愛していた人だからこそ、彼には彼の幸せをきちんと掴んで欲しい。私自身だけではない、彼の幸せもたしかに心から願っている。
これは、お互いのためになる契約破棄だ。
数秒間の沈黙で、彼は何を思ったのだろう。俯いた彼の表情は見えない。しかしやがて、無言で破棄手続き用の書類に手を伸ばす。
絶妙なタイミングで執事が彼にペンを渡し、サラサラとペンの走る音がする。
一文字一文字が右上がりに綴られた彼の名。特徴的な筆記が懐かしい。
私の隣に並んでいるのを見ると、二人で婚姻契約のサインをし、どちらともなく笑いあった昔を思い出していると、最後の一文字を書く直前で何故かペンがピタリと止まる。
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