ボロ雑巾な伯爵夫人、やっと『家族』を手に入れました。〜世間知らずの夢の成就は、屋敷ではなく平民街で〜

野菜ばたけ@『祝・聖なれ』二巻制作決定✨

第一章:ボロ雑巾な伯爵夫人は、棄てられた先で居場所を見つける。

第一節:生粋の貴族夫人・フィーリア、貧民少年たちに出逢う。

第1話 棄てられてしまった伯爵夫人


「あのっ! 一緒にご飯を食べませんかっ」


 それは、おおよそ貴族が貧民にすべきではない提案だった。

 でも、棄てられた私とガリガリの彼ら。私たちのこの出会いは、偶然にして運命だったのかもしれない。

 そう、のちになって思う。

 

 私が棄てられてしまった事さえ、私が自分自身を見つけて強くなるためには必要な過程だったのだ。

 そう思わずにはいられないくらい、この出会いが、なけなしの勇気を振り絞ったこの提案が、私の人生を大きく変えた。



 ◆ ◆ ◆



 地面に乱暴に棄てられて、顔にベシャリと泥が飛んだ。

 打ち付けてくる雨に、あっという間に指先は冷える。


 突然の事に混乱して、上手く頭が働かない。にも拘わらず、現実は私に容赦をする気はないようだった。


「フィーリア、お前はもう要らん」


 頭上から降ってきた声に顔をゆるゆると上げれば、蔑むような目と目が交わった。


「ザイズドート様……」


 懇願するように上げた声は、掠れたか細い声にしかならない。

 私だって分かっている。彼に助けを求めても、きっと無駄だという事は。



 こうして門外のぬかるんだ地面に、まるでゴミでも捨てるかのように私を投げ捨てた彼に、どうして今更情なんて掛けてもらえるのか。

 頭では分かっている事なのに、彼をまだ愛しているから、優しかった時の彼を忘れていないから、どうしても一縷の望みを捨てきれない。


 しかし現実は不条理だ。


「『婚姻契約』は保ってやる。社交界にはお前は伏せっているという事にし、名前だけは取り上げぬ。感謝する事だ。優しいレイチェルからの、せめてのも温情なのだから」


 その言い分は、最早契約上の関係だけしか残っていないという残酷な現実を私に突き付けてきた。

 温情などではないだろう。きっと世間体と、教会に届けを提出し手続きをするのが面倒なのだ。

 混乱と絶望と失望のせいで、まるで靄がかかったように深く物事を考えられない私でもぼんやりと、そのくらいの事には思い至ることができた。


 昔は甘い鳶色を向けてくれていた筈の瞳が、すっかり冷え切り突き刺さってくる。

 それだけでもひどく心が痛いのに、現状は私に容赦ない。


「貴女には、もう帰る場所も無いですものね? ですから心の拠り所までは奪いませんわ。今までこの屋敷に住まわせてもらっていた事に感謝して、その名を胸に平民街でも強く逞しく生きてくださいな?」


 ニコリと微笑んだ彼女・レイチェルさんの顔には、優越感交じりの嘲笑が浮かんでいた。

 しかしそんな言葉などよりも、彼の腕――ほんの一年ほど前までは私のだった筈の所にスルリと絡まった彼女の細腕が、私の心を絶望で冷やす。


 第二夫人の座でありながら、私から『妻』という立場と実の息子を奪った人。その上ついに、屋根まで取り上げると彼女は言う。

 何故こうも、彼女は私を嫌うのか。出会った時からずっと疑問で、今も尚理由が分からない。


 ゴロゴロと、曇天の空の向こうで稲光が助走をし始めた。

 ジャリッと地面を踏みしめる音と共に、小さな影が私の前に仁王立ちする。


「きったねぇなぁ。栄光あるこのドゥルズ伯爵家のすぐ外に落ちてるだけでも気分が悪い」

「マイゼル……」


 ちょうど先月十三歳になったばかりの、私が生んだ、私の子。目鼻立ちこそザイスドート様によく似ているものの、ウェーブかかった金髪と碧眼は私の特徴そのものだ。

 それなのに、何故だろう。実母の私などよりも、継母のレイチェルさんによく似ている。


「こんな女と血が繋がってるなんて、ホントに反吐が出る」


 この言葉が彼の口癖になってしまったのは、いつだったのか。

 初めて彼から言われたのは、たしか去年の事だっただろう。


 あの時は、無意識のうちに涙が溢れ、止まらず何も言えなかった。


 そうでなくとも、ザイスドート様から「格上の侯爵家からやってくる令嬢だ。くれぐれも機嫌を損ねないように」と言われて、彼の為にと頑張っていた。

 生まれた時から子爵令嬢だった私が聞くには無茶な要求が多かったけれど、彼に相談しても「頼む。我が家のためだ」と言われて懸命に努力した。屋敷回りの慣れない仕事を、体に鞭を打ってこなしていた。


 そんな時だったのだ、息子から初めてあんな言い様をされたのは。


 既にレイチェルさんから受けた仕打ちの数々のせいで心がボロボロに近かった私は、たどたどしく明らかに言わされていたその言葉に、ただただショックを受けてしまった。

 言葉遣いを叱ることも泣く事も出来ずに放心してしまった。そしてそうしている内に、気が付けば息子は完全にレイチェルさんに盗られてしまった。


 話し方や仕草、表情までもが、すっかり彼女に染まっている。今更彼に、私の言葉は届かない。それが目の前の現状の全てだ。



 降りしきる雨が、まるで私を罰するかのように打ち付けてくる。


 結婚をして、子を成し、家族で仲良く暮らしていく。十年以上前にザイスドート様に語ったそんな夢は、当たり前のように叶えられるものだと思っていた。

 何故それが今、手の中に無いのか。何度考えても答えは出ない。

 分かるのは、もうすべてが遅いという事だけだ。


「とっとと居なくなれよ? 邪魔だから」


 マイゼルの声と共に、傍に何かが投げられた。


 ザイスドート様が門の両脇に立っていた警備の騎士達に手で合図をし、屋敷の門が押し閉じられる。


 踵を返した彼らは、私の存在などすでに忘れているかのように、格子の向こうで話に花を咲かせ始めている。

 それは正しく、私が昔思い描いていた『温かな家族の団欒』だ。

 視界がゆらりと滲んで歪む。しかしその景色さえ、雄々しい鷹の紋章が描かれた立派な扉に阻まれて姿を消してしまった。



 鋭い眼光の、雄々しく羽ばたく鷹が、私を冷たく見下ろしてくるように見える。


 あぁ、本当に私は捨てられてしまったのだ。

 聞こえなくなった話し声に、そうと自覚させられる。


 どうしていいか、分からない。放心して視線を落とせば、髪を伝った雨水が濡れた地面に滑り落ちていく。


 どれくらい、その状態でいただろうか。

 体がすっかり雨に体温を吸われた頃に、思い出したように地面に視線を這わせる。


 私の隣に投げ捨てられた泥だらけの革袋は、まるで私のようだった。

 それにそろりと手を伸ばし、革越しにたしかに感じる硬質な感触にほんの少しだけ安堵する。


 私にはもう、身を寄せるべき場所はない。四年前に起きた馬車の事故で両親と弟同時に失い、同時に継ぐ者が居ない実家も取り潰された。行く当てなんてどこにもない。

 そんな私にとってこれは、ザイスドート様からの最後の温情のように思えたのだ。手のひら大の小さな袋を両手で拾い上げ、胸にギュッと抱きしめる。


 濁った水が胸元を汚したが、気にするような事はしなかった。



 ――せめて、マイゼルが言った最後の言葉を守らなければならない。

 ゆらりと立ち上がったのは、漫然とそう思ったからだ。


 裾がほつれたスカートに滲み込んだ水がひどく重い。それでもゆっくりと歩きだす。

 顔に張り付く長い髪が鬱陶しくても、ぬかるむ足元に何度も足を取られかけても、ただただ足を進め続けた。しかし踏んだ水たまりの中の女と目が合って、やっと足を止め見下ろした。


 虚ろな目だった。嫁入り前と比べてずいぶんと年を取り痩せこけた自分が、一瞬誰だか分からなかった。


 こんな女、誰にも隣を求められなくて当たり前だわ。


 いつからかずっとレイチェルさんに言われ続けていた言葉が、ストンと私の中に落ちた。


 顔だけじゃない。手だって、ザイズドート様の腕に絡みついた細くて白い指とは比べ物にならない。荒れてボロボロになっている。

 棄てられて、当たり前だ。そう自覚した瞬間に、私を突き動かしていた何かがプツンと切れた。


 水たまりを叩く軽い音が引っかかったような気がしたが、そんな事はどうでも良かった。


 たとえどれだけ歩いたところで、目的地も無ければ生き方だって分からない。

 必要とされていない。望まれてもいない。

 ならばもう止めても――。


 ドンッ。


 目の前を影が横切ると同時に、何かが腹部の辺りに衝突した。



 反射的に、ぶつかったものへと目をやった。そして驚く。

 黒髪の小さな濡れネズミ少年の、薄桃色の目と目が合った。




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