第三章:臆病者の伯爵夫人は、ついに立ち上がる決意を秘めた。

第33話 一方その頃 ~マイゼル・ドゥルズの苛立ち~



 ――マイゼル様は、最近特に機嫌が悪い。

 使用人から影でそう言われている事は、俺自身よく知っている。


 が、仕方がないではないか。

 最近俺の周りでは、腹立たしい使用人の不手際が頻発に頻発を重ねているのだ。


「おいメイド! どうしてインク壺にちゃんとインクが入っていない!」

「し、しかしインクはちゃんと――」

「俺はインクが半分以下に減っているのは嫌なんだ! 貴様は一体何年俺に仕えている!!」


 俺の怒声に、メイドが「もっ、申し訳ありませんっ」と半泣きになりながら地に伏して謝ってくる。

 腕組みをしながらその様を見下ろしているが、全然ダメだ。この程度では、もう俺のストレスも発散されないところまで来ている。



 最初こそ、こうして怒れば逆立った心も多少はスカッとしたのだ。しかし今はもう、いちいち俺を怒らせるこいつらに、苛立ちしか覚えない。


 大体こいつらは、今までずっと当たり前のように整えられていた事ができていない。

 あるべきものがそこに無い事がどれほどのストレスか。そんな簡単な事にさえ、こいつらは皆揃いも揃って思い至れないらしい。

 こんな日々の苦労と苛立ちに、奥歯をギリッと噛み締める。


 一体何故、俺がこんな不便を強いられなければならないのか。近頃の急激な環境の変化に、誰も明確な答えをくれない。俺自身、そうなった理由がまったく分からない。

 最近は継母上が俺を褒めてくれなくなった事も、俺のいら立ちがつのる原因になっている。

 たしかに最近は、俺に褒めを齎すための間接的な元凶が屋敷から消えたのだから、少しは仕方がないのかもしれない。が、それにしたって最近の継母上は、まるで俺を見ようともしない節がある。

 そういう諸々が積み重なって、最近は特にストレスが溜まる。



 父上は今頃、きっといつも通り仕事で執務室に籠っているのだろう。継母はは上もきっと馬車で外に遊びに出ているか、屋敷に商人を呼びつけて買い物をしているかのどちらかの筈だ。

 二人とも、変わらぬ日々を謳歌している。なのに俺だけ、俺だけだ。俺だけが不遇を被っている。

 これを不公平と言わずして、一体何だというのだろう。


 そんな風に、 フラストレーションが澱のように溜まり続けていた。だからこれは、おそらくいつかは来ただろう堪忍袋の緒がついに切れる瞬間だったのだ。


「……おい、何でいつものシャツが無い」

「は……」

「今日は午後から来客がある。それを知っていて、何故を準備していない!!」


 感情に任せて近くにあったテーブルの上を薙ぎ払えば、ティーセットが盛大に床に落ちガシャァンという大きな音を立てた。


 着替えのシャツが、気合を入れて対応すべき来客の際にゲン担ぎで着る事にしているソレではなかった。

 怠惰め、無能め、考えなしめ。あまりに使えなさすぎる。


 何故またそんな今にも泣きそうになっている。被害者面も甚だしい。


「も、申し訳……」

「それで、もちろんあのクッキーは用意しているんだろうな」


 嫌な予感がしたため、苛立ちながらもわざわざ確認を取ってやる。すると、なんとメイドの肩がビクリと震えた。それが疑問の答えであるのは疑いようもない事だ。


「あれも用意していないのか?!」


 思わず机をダンッと強く叩く。

 信じられない。今日の客は、俺の婚約者だぞ。お父様からも「せっかく格の高い家の令嬢をあてがったのだから上手くやれ」と言われているのだ。

 それが、あのクッキーを食べたくて、月に一度はこうして必ずお茶をしに屋敷にやってくる。アレが無いとダメなのに。


 キッと目を剥けば、震えた声でメイドが言う。


「しかしあのクッキーは奥様が作られていたものでしてっ」

「は? 奥様?」

「フィーリア様です」

「……実母アレが?」


 思わず片眉を上げた。

 知らなかったぞそんな事。今の今まで、てっきりうちのシェフの誰かが作っているものだとばかり。


 でも、あの女に作れたのだ。シェフに作れないはずがない。いいから早く作れ、と言い返そうとしたのだが、一歩の差で先にメイドが弁明を滑り込ませる。


「あのレシピは奥様のご実家の秘伝なのです。見様見真似で作ってはみたものの隠し味が分からず、未だに再現には至っていないのです。そ、それだけではありません。マイゼル様がご不満に感じていらっしゃる最近の数々の配慮不足も、すべて奥様が『私が息子にできるのは、このくらいの事だけだから』と仰って、自らなさっていたことなのです。そのため私達にも、その全容が未だ分からず――」


 何だと? という事は、今日まで味わってきた数々の苛立ちは、全て実母アレのせいだったという事なのか。

 衝撃の事実に、ほんの一瞬思考が止まった。が、すぐにフツフツと心の底から怒りが込み上げてくる。


 あの女のせいで、今こんなにも苛立っているだと? この俺が?


「……せ」

「は、はい?」

「今すぐあの女を探し出せ!」


 叩きつけるような指示を出せば、怒気が十二分に伝わったのだろう。青い顔で一礼した後、部屋の外へと去っていった。



 パタパタと廊下をかけていく足音に、俺は自ら、怒りに震える息を落ち着けるようにして、ゆっくりと鼻から吐き出す。



 あの女は、何もできない女だ。

 社交場で当主である父上の補佐さえできない上に、いつも質素で飾りっ気の無い女だった。

 レイチェル継母上が来て「家でも貴族としての品格を使用人たちに示す事こそが、領主の妻であるモノの役目だ」と教えてくれて初めて、あの女が家で己の役割をサボっているのだと理解した。


 外で全く役に立たず、家でも自らの役割を全うする事ができない。自分の母がそんな女だと分かって、どれだけ恥ずかしく思ったか。

 レイチェル継母上に教えてもらうまで、私は「使用人は、主人のためになるのが義務。替えが利く人形のようなものなのだから、役に立たないのなら、立つように教育するか、捨てるしかない」という事さえ知らなかったくらいだ。


 だから継母上に聞いたのだ。じゃぁ使用人以上に役に立っていない母は、どうしたらいいのかと。

 すると彼女は優しく微笑み、「やはり教育が必要だ」と俺にちゃんと教えてくれた。


 最初の内は、あの女のために言葉を投げた。しかしどうにもならなかった。

 ポンコツはポンコツのままなのだと知って、幻滅して、諦めた。あの女と同じだと思われたくなくて、俺はちゃんと貴族の威厳を保っていられる人間でいようと決めた。


 真に格がある者としての振る舞いをレイチェル母上から学びそれをあの女に試せば、継母上からはとても褒められた。

 貴族として成長しているのだと実感できて、嬉しくて、もっともっと頑張った。いずれ「あんな出来損ない、居なくても特に俺の日常は変わらない」と知ってからは、逆にあの女を視界に入れる度に苛立ちを覚えた。


 だから父上が廃棄を決めた時は、とても清々したのである。でももしそのせいで、今のこの不利益が生まれているのだとしたら。


「従えた方が、まだマシだ」

 

 誰も居ない室内で一人呟く。


 一度棄てた実母は、すでにもう母ではない。

 実際に一度平民街に落ちたのだ。ならば平民と同じだ。


 平民ならば、ただのメイドとして使えばいい。

 元々生粋の貴族が外に出て、きちんとした生活が出来ている筈がない。今頃困っているに違いない。

 きっと「メイドとして雇ってやる」と言ってやれば、喜び涙を流すだろう。もしかしたら俺の足元に縋りついて、礼を言うかもしれない。


 想像してみたら、少しだけ溜飲が下がったような気がした。

 ならば、そうだな。実際にこの口でそれを通達しこの目でその様を見れたとしたら、きっとこの腹立たしさも一掃される事だろう。


「居場所が分かったら、直々に足を運んてやろう」


 婚約者には申し訳ないが、今日クッキーは我慢してもらうしかないだろう。代わりに「次はいつもの二倍振る舞う」と約束すれば、機嫌も直るに違いない。

 自らの中で色々な物に何とか折り合いを付けながら、用意されたシャツを見下ろした。

 いつもの物とは似て非なるシャツではあったが、もうあまり気にはならなかった。


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