第17話 姫君の胸騒ぎ
事が起こったのは、早くもその日の夜のことだった。
これだけは未だに慣れない上等なベッドで、俺が眠りに落ちようとしていたその時。寝室の扉の外から、鈴を転がすようなシルヴィアの声と、それに何か言い返している男性の声が聴こえてきた。
ヒナリ様に大事な用があるんです――と言って聞かない姫君に対して、この部屋の衛兵二人が、「お通しする訳には参りません」とか「夜歩きは危険です」とか
まったく、あのお姫様は……と衛兵達に同情しつつ、俺はベッドを降りて扉を開ける。
「ヒナリ様っ」
俺の顔を見るなり、シルヴィアはぱっと表情を明るくした。
さすがにいつかのネグリジェめいた格好とは違って、白地の室内着の上に長丈の上着を羽織っているけど……日中と違って顔の片側にまとめられた銀髪と、ふわっと漂う甘い香りが、俺を一瞬ドキリとさせる。
俺は衛兵達に軽く目礼しつつ、部屋の外に出て彼女と向き合った。
「なに、また夜這い?」
「違いますっ!」
律儀に頬を赤らめてから、彼女は光の
「でも、おかしいと思いません? ホラ、わたくしがコッソリここを訪れているのに……」
彼女の言いたいことは、俺にもすぐに察せられた。
「……パルフィが追ってこないね」
これまでの流れからして、シルヴィアが夜中に自室を抜け出したりしたら、あの子がたちまち気付いて連れ戻しに来そうなものだけど。
俺の寝室に護衛が付いたことを知っているから、シルヴィアが忍び込もうとしても追い返してくれるはずと安心してるんだろうか。いやいや、あのしっかり者のマジメちゃんが、そんな風にタカをくくって姫様を野放しにするとはとても……。
「気になるな……」
ローリエの忠告を思い出して俺が呟くと、シルヴィアはコクコクと小さく頷き、さりげなく俺の手を取ってきた。
「ヒナリ様、一緒にあの子の部屋に夜這いしてください」
「君、ひょっとしなくても言葉の意味をわかってないよね?」
衛兵達に目線で断りを入れて、俺はシルヴィアに手を引かれるがまま、王宮内の廊下を付いて歩く。
等間隔で魔法の灯りが光っているだけの暗い廊下は、日中とは別の場所のように思えた。
「……夕食時くらいから、パルフィの様子はちょっとヘンだったんです」
周囲の静けさに合わせたように声をひそめて、シルヴィアは俺の手を握ったまま言った。
「わたくしが『何かあったの?』と聞いても上の空で。それじゃ、久しぶりに一緒にお風呂に入りましょう、と誘ってもつれなくて」
「一緒にお風呂入ったりしてるんだ……」
「わたくしとあの子、幼馴染ですもの。ヒナリ様も一緒にお入りになります?」
「は!?」
悪戯っぽい目で見上げられ、俺の裏返らせた声が廊下に反響する。
「君さあ、お姫様がそういう冗談言っていいわけ!?」
「……ごめんなさい、今のはちょっと、忘れてくださいっ」
さすがに恥ずかしくなったのか、シルヴィアは俺の手を放して両手で顔を覆っていた。
「そんなことになったら、俺はお姉さんにぶっ殺されるって」
こんな時、真っ先に思い浮かぶのはアウラの鋭い目だった。
ちなみに、そのアウラは遠方の前線の視察に出ていて、今は王宮を留守にしている。間違っても今の話を聴かれる可能性がなくてよかったな……と思ったとき、妹ちゃんは何を勘違いしたのか、頬を染めたまま「ヒナリ様はっ」と黄色い声を上げて。
「お姉様とわたくしだったら、やっぱりお姉様をお選びになるのですか?」
「へっ!? いや、なんでそんな話に!」
無意識に胸を押さえる俺を見つめて、「だって、お姉様が嫉妬するって」と、僅かに頬を膨らませて言ってきた。
「いや、そういう意味じゃなくて……!」
手を振って否定しつつも、例の女神の言葉や、先日の侵入騒ぎの後のアウラ自身の態度が次々と思い出されて、心臓の鼓動が早くなるのを抑えられない。
嫉妬……するんだろうか、今のアウラは。俺がシルヴィアとどうかなったら。
いやいや、今はそんなこと考えてる場合じゃないだろう、と俺が一人で首を振っていると、廊下を曲がった先から金属質の足音がした。さっきの声を聞きつけて、見張りの兵士が駆けつけてきたらしい。
「殿下! どうされました!?」
「なんでもありません。どうかお気になさらず」
兵士達から警戒に満ちた視線を向けられながらも、俺はほっと胸を撫で下ろす。話を本題に戻すにはちょうどいい切っ掛けになった……。
「……それで、パルフィの部屋って」
「もう、すぐそこです」
俺を先導して、シルヴィアは廊下の角を曲がり、光る杖でその先を示す。
「この奥がわたくしの寝室で、手前が彼女のです」
奥の部屋の前にはまた別の衛兵二人が立っていて、姫君の姿を見るや、安心した表情で頭を下げてきた。部屋を出るとき、彼らにも相当止められたんだろうな……。
元社畜としてのシンパシーみたいなものを勝手に感じて、兵士達に内心で同情しつつ、俺はシルヴィアと並んでパルフィの寝室の前に立った。
「パルフィ? いるの?」
シルヴィアが呼びかけるが、中からは物音一つ返ってこない。衛兵達も気になる様子で遠巻きに見てくる中、彼女はそっとドアノブに手をかけるが、がきっと鈍い音がするだけでノブは回らなかった。
「……わたくし、今夜はなんだか胸騒ぎがして。先ほども一度呼んでみたのですが、返事がなかったんです。いつもは鍵なんてかかってないですし、わたくしがちょっとお水を飲みに起きただけでも、すぐに察して様子を見に来てくれるのに」
そのせいで十分眠れてないんじゃないの、と水を差せる空気でもなさそうだった。
日中のあの様子といい、もちろん俺だって気になる。最悪、中で倒れてるなんてことがあったら……。
「シルヴィー。俺がこの部屋を透視したら、あの子は怒るかな」
「……事態が事態ですから。お願いします」
王女殿下の許可を頂いたので、俺は右手のブレスレットに力を込め、顔の前に持ってきてみた。
俺の意志を受けて宝玉が赤く輝き、その光を通して龍人の視力が生身の目に宿る。寝室の扉を透過して、整然と片付けられた室内の様子が視界に入った。
思った通り、ベッドの上は無人だった。窓だけが不自然に開け放たれ、白いカーテンが外からの風に揺れている。
「……この部屋には居ない」
「そんなっ。わたくしに黙ってどこへ!?」
どこへ――と言うなら、ひとつ危険な心当たりがあった。
脳裏をよぎるのは、俺があの結晶体を壊すのを見ていた時のパルフィの表情。ローリエに言われた通り、俺がもっと気をつけてあの子に張り付いていれば……。
「ヒナリ様っ、どうしましょう、あの子を探さないと!」
俺の腕に
「俺と君達が初めて出会った時の山って、ここからどのくらい?」
「え?」
虚を突かれたようにキョトンとしながらも、彼女はすぐに小さく息をついて答える。
「南西に約六十レジャンス。早馬なら一時間、
意外にもすらすらと発せられた情報に、そういえば報告書とか書きこなせる子だったな……と思い直しつつ、俺は彼女の肩から手を離して言った。
「パルフィが居るとしたら、そこかもしれない」
「ど、どうしてですか?」
「それは……」
この思いつきを彼女に伝えるべきだろうか。力の源となる物体を求めて、あの子は巨獣兵器の倒された場所に向かったのかもしれないと。
俺が迷っていると、またも廊下の向こうからガチャガチャと忙しない足音が駆けてきた。
「シルヴィア殿下! お目覚めでしたか!」
「パルフィが見つかったの!?」
「はっ!? いえ、巨獣兵器の出現の報せです!」
息を切らしてやって来た兵士が答えると、たちまちその場の空気が変わった。
「場所はっ」
今の今まで不安に
「王都南方に八十レジャンス、デシャペルの森の近傍です。既に現地部隊が応戦していますが、今回は敵が二体出現しているんです」
「「二体……?」」
俺とシルヴィアの言葉が重なる。嫌な予感が背筋を冷たく撫ぜた。
「シルヴィー、もしかしたらパルフィは――」
「ええ、不思議ですね。わたくしも、あの子はそこにいるような気がするんです」
白い手をきゅっと胸の前で握り締めて、彼女は青い目を上げる。
「お姉様への連絡は?」
「既に伝令兵が
「もちろん。ヒナリ様、まいりましょう!」
僅か数分後、薄手の鎧に群青のマントの戦装束を纏ったシルヴィアと共に、俺は
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