第5話

 スタンドライトの灯りだけでは、心もとない程に部屋が暗くなり始めたので、それを消すと、私は首と腕を軽くひねった後で、椅子を引いた。



 薄い戸を開けると、田口と思われる男は、電気もつけず、ぼんやりと窓の外を眺めている。
本当にぴくりとも動かないので、孤独に虫歯まれ、気を違えた私が、田口という男のオブジェを作り、それを人間と思い込んだまま生活をしていた事を、今突然思い出したかのような奇妙な気持ちになった。


 窓さえも開けたままで、すっかり部屋の中が冷え切っていたので、私は窓を閉め、ストーブの芯を調整すると、ソファの上のぬりえと色鉛筆が目に入る。良く躾けられた田口のペットが、主人の指示を永遠と待っているかのように昼間と変わらぬ位置にうずくまっていた。

 お粥の入った土鍋の蓋を開けると、二、三口食べたきりで、まるで減ってはいなかったが、田口はそんなことはどうでもいいような、そもそもそこにお粥があったことさえ知らないような様子だった。



 私は小さくため息を吐き、台所へ行くと昆布を入れた鍋に水を注ぎ、出窓に置くと、二つの鍋を火にかける。その隙にお粥をタッパーに移し替えて冷蔵庫にしまい、土鍋を洗うと、お湯の沸いた片方の鍋でほうれん草を茹で、もうひとつの鍋に日本酒を入れ、鶏のササミを落とすと、再沸騰するのを待ち、火を消して鍋の蓋を載せた。



 私がそうしている間も、男はずっと窓の外を眺めてていたので、私も窓のほうに目をやってみたが、そこには、ただ雨戸が閉まったままの向かいのマンションが在るだけだった。

「あ!」と、私は態とらしく声を出し、昼間置いたままのビニル袋から、メンソレータムのリップを取り出し、パッケージを剥いでいると、男は力無くこちらを振り返ったので、そのままリップを男の方に、緩い弧を描くように投げたが、男はそれを受け取らず、コツンと音を立てて床に落ちた。私はそれを拾い上げると、男の隣にしゃがみ、唇を一の字に結びながら「こうやって」と話しかけた。

 男はつられ唇を結ぼうとしたが、カサカサと乾涸びたそれを一の字に張るまではできなかった様で、途中で止まってしまった。私は「ごめんね、少し触るよ」と断りを入れると、男の顎を左手で持ち上げる。伸びたままの髭が、ちいさく、じゃり。と、音を立てた。男は一瞬ピクリと身体を固くしたが、それ以上動く事はなく、私は右手で持っていたメンソレータムのリップを唇に押し当て、擦るように塗り込んだ。台所の僅かな灯りが左側の男の頬を照らし、右側の頬には影が落ち、目頭あたりまで伸びた前髪の隙間から見える瞳が微かに揺れていた。痩せ細り、乾涸び、目の輝きを失ってはいるが、朝に見た田口博之と言われる男の写真の面影がそこにあるような気がした。


 唇からはみ出す様にたっぷりとメンソレータムを塗り終えると、私は満足して蓋を閉め、「これ、使って」と、男の手にそれを握らせると、私は再び台所に立った。

 昆布の入った鍋を火に掛け、沸騰する前に昆布を取り出し、沢山の花鰹をふわりとお湯に乗せると、次第にそれらは湯の中に沈み、湯気の中に出汁の匂いが広がる。

 濃い目に取った出汁に、みりんと塩、醤油で薄く味をつけ、別の鍋でさっと麺を茹で、茹で上がった麺を笊にあげてぬめりを洗い落とし良く水を切ると、出来たばかりの掛けつゆの入った鍋に入れ、柔らかくなるまで煮込む。


 私は温めていた丼のお湯を捨てると、残った水滴を布巾で拭き取り煮麺をよそうと、柔らかく茹でたホウレン草と手で裂いた鶏のささみを乗せて男の前に置いた。


 自分の分の丼もテーブルに運び、いただきます。と、小さく言って、麺を啜る。
私が半分ほど食べても男は手をつけないので
「ノルマだよ。麺が伸びると食べる量が増えるよ」と言うと、男はゆっくりと箸を取った。



 男が麺を啜る速度に合わせ、私もゆっくりと麺を啜る。部屋にはその音だけが交互に立ち、私はそれがあまりに滑稽に思え、可笑しくなって、笑いそうになるのを堪える。


 程なくして、冷えていたはずの身体が温まると、私はストーブの芯を元に戻す。

 男は、丼の三分の一を残し、もう食べれない事を私に伝え、お粥も残してしまって、ごめんと謝るので、私は構わない。とだけ答えた。



 バスタブにお湯を張り、お風呂に入る様促す。男がお風呂に入っている間に私は洗い物を済ませ、ストーブの灯油を継ぎ足すと、スケッチブックを何冊かと、乾かしておいた男の病衣を入れた袋、引き出しに入れたままの名刺入れを鞄に押し込んだ。


 男が風呂から上がるのを待ち、スポーツドリンクを手渡すと、また明日来るが、欲しいものはあるか、好き嫌いはあるか等質問したが、男は全てに対し、首を横に振った。私が用意したパジャマは小さかったようで、足首どころかふくらはぎの手前までがむき出しになっていた。


 マンションの階段を降り終わったところで、作業部屋のヒーターを消し忘れた事を思い出し、引き返す。


 ドアを開けると、トイレの方から、男が嘔吐している音が聞こえた。



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